与謝野晶子

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2009年1月29日 (木) 23:35の版
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 与謝野晶子は、堺(大阪府)の古い和菓子屋に生まれる。父が学問好きであったため、家には沢山の本があった。晶子は幼いころから、父の本を読みふけり、なかでも島崎藤村の詩集『若菜集』に強くひきつけられる。

 このころ、詩人与謝野鉄幹は「まことの心をかくさず歌うのが、新時代の歌」と主張。短歌の改革をめざして新詩社をつくり、雑誌『明星』を出していた。ここから石川啄木や高村光太郎が巣立っている。


 はじめ、藤村の影響をうけた詩や短歌を発表していた晶子は、『明星』につぎつぎと短歌を発表する。次第に自由で浪漫主義的な独特の作風になり、注目されるようになる。大阪に講演にやってきた鉄幹に、はじめてあった晶子は、彼の力強い主張にひきつけられ、鉄幹は晶子の才能を見抜いて、互いに忘れがたい存在となる。この翌年、晶子は親の反対をおしきって東京の鉄幹の元へ行き、結婚した。この激しい恋の中で、晶子は大胆で美しい歌を作り出す。


 晶子が上京した同じ年に歌集『みだれ髪』が出版される。この歌集は、鉄幹との恋を歌ったもので、当時の人々は、あまりにも激しく率直な恋の表現に驚いた。晶子は、日露戦争におもむく弟にあてて、「君死にたまふことなかれ」と歌う詩を書き、国のために死ぬことが最大の名誉だった当時の社会に、大きな反響を呼んだ。


 歌集を次々と出して、明星派の女王となるとともに、ヨーロッパに渡り、帰国後、評論や随筆を書き、婦人運動にも大きな功績を残した。



参考文献

『小学歴史人物』 赤尾文夫  旺文社

『歴史の精解と資料』 藤井譲治 文英堂   


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