徳川吉宗2
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徳川吉宗(1684~1751) | 徳川吉宗(1684~1751) | ||
- | 8代将軍。享保の改革を行った人物。 | + | 8代将軍。享保の改革を行った人物。 |
- | 吉宗は1684年(貞享元年)、紀州藩2代藩主である徳川光貞の側室の子として生まれた。吉宗は4男だったため、生まれるとすぐに家士である加納五郎左衛門のもとで養育された。その後、紀州藩主となった時、続く天災などで財政が窮迫していたのを、自ら質素倹約に努め、訴訟箱を設けたり新田開発をしたりするなどして、財政を回復させた。 | + | 吉宗は1684年(貞享元年)、紀州藩2代藩主である徳川光貞の側室の子として生まれた。吉宗は4男だったため、生まれるとすぐに家士である加納五郎左衛門のもとで養育された。その後、紀州藩主となった時、続く天災などで財政が窮迫していたのを、自ら質素倹約に努め、訴訟箱を設けたり新田開発をしたりするなどして、財政を回復させた。 |
3人の兄が亡くなり、7代将軍家継が8歳で亡くなったことから、1716年(享保元年)に吉宗は8代将軍となった。徳川御三家初の将軍である。吉宗は家康の治めた頃を理想としていた。しかしながら、政治の内容は紀州藩主の頃の改革を踏襲していた。将軍になってからは、まず、大奥と老中を味方につけたり、人材の登用の改革を行った。そして身分が低い者でも安心して役目が勤まるように「足高の制」を設けた。また、城下の様子を把握することにも努め、目安箱の設置や秘密警察の役割をする締戸番(お庭番)を配置した。目安箱の投書から、江戸は火事が多いことから町火消「いろは四十七組」を組織した。吉宗は老中に政治を任せることなく、自ら政治を行った将軍であったのだ。 | 3人の兄が亡くなり、7代将軍家継が8歳で亡くなったことから、1716年(享保元年)に吉宗は8代将軍となった。徳川御三家初の将軍である。吉宗は家康の治めた頃を理想としていた。しかしながら、政治の内容は紀州藩主の頃の改革を踏襲していた。将軍になってからは、まず、大奥と老中を味方につけたり、人材の登用の改革を行った。そして身分が低い者でも安心して役目が勤まるように「足高の制」を設けた。また、城下の様子を把握することにも努め、目安箱の設置や秘密警察の役割をする締戸番(お庭番)を配置した。目安箱の投書から、江戸は火事が多いことから町火消「いろは四十七組」を組織した。吉宗は老中に政治を任せることなく、自ら政治を行った将軍であったのだ。 | ||
しかしながら、財政は回復せず、「上げ米制」をとる。これは諸大名に石高1万石について100石の割合で米を上納させる代わりに、参勤交代の期限を半年に短縮するというものである。これによって、ひとまず危機は回避され、のちに撤廃されている。また、吉宗は新田開発にも力をそそぎ、増収策にも意欲的であった。法分野では「公事方御定書」などを編纂した。 | しかしながら、財政は回復せず、「上げ米制」をとる。これは諸大名に石高1万石について100石の割合で米を上納させる代わりに、参勤交代の期限を半年に短縮するというものである。これによって、ひとまず危機は回避され、のちに撤廃されている。また、吉宗は新田開発にも力をそそぎ、増収策にも意欲的であった。法分野では「公事方御定書」などを編纂した。 | ||
- | 吉宗は馬好きであり、西洋から馬を輸入し日本の馬の改良を進め、さらにゾウやダチョウなどの珍しい動物を輸入などした。また、動物だけでなく西洋の新しい物産・知識など役に立つもの、実用的なものは進んで取り入れた。その中でも、望遠鏡を輸入した際には天体に関心を抱き、西洋研究を導入するなど家臣にもオランダ語を勉強するよう勧めたという。この取り組みは、後に前野良沢や杉田玄白の「解体新書」など日本の近代化に大きな影響を与えることになる。 | + | 吉宗は馬好きであり、西洋から馬を輸入し日本の馬の改良を進め、さらにゾウやダチョウなどの珍しい動物を輸入などした。また、動物だけでなく西洋の新しい物産・知識など役に立つもの、実用的なものは進んで取り入れた。その中でも、望遠鏡を輸入した際には天体に関心を抱き、西洋研究を導入するなど家臣にもオランダ語を勉強するよう勧めたという。この取り組みは、後に前野良沢や杉田玄白の「解体新書」など日本の近代化に大きな影響を与えることになる。 |
- | 日本の様子を積極的に捉え、民の意見を参考に政治を行った吉宗。その政治はおおむね成功したといえるだろう。このことはその後、松平定信の寛政の改革や水野忠邦の天保の改革が、享保の改革を手本としたことからも窺える。また、財政回復のために厳しく質素倹約を行っただけでなく、民が楽しく生活できるよう江戸3大祭りを実施したことも、親しみやすい将軍であったのではないかと感じた。 | + | 日本の様子を積極的に捉え、民の意見を参考に政治を行った吉宗。その政治はおおむね成功したといえるだろう。このことはその後、松平定信の寛政の改革や水野忠邦の天保の改革が、享保の改革を手本としたことからも窺える。また、財政回復のために厳しく質素倹約を行っただけでなく、民が楽しく生活できるよう江戸3大祭りを実施したことも、親しみやすい将軍であったのではないかと感じた。 |
鎖国の最中であったにもかかわらず、積極的に西洋の情報を入手し吸収していく様子からも、好奇心があることから、日本の鎖国という状態を吉宗はどのように捉えていたのだろうかと不思議にも感じさせられた。 | 鎖国の最中であったにもかかわらず、積極的に西洋の情報を入手し吸収していく様子からも、好奇心があることから、日本の鎖国という状態を吉宗はどのように捉えていたのだろうかと不思議にも感じさせられた。 | ||
2009年1月30日 (金) 00:15の版
徳川吉宗(1684~1751)
8代将軍。享保の改革を行った人物。 吉宗は1684年(貞享元年)、紀州藩2代藩主である徳川光貞の側室の子として生まれた。吉宗は4男だったため、生まれるとすぐに家士である加納五郎左衛門のもとで養育された。その後、紀州藩主となった時、続く天災などで財政が窮迫していたのを、自ら質素倹約に努め、訴訟箱を設けたり新田開発をしたりするなどして、財政を回復させた。 3人の兄が亡くなり、7代将軍家継が8歳で亡くなったことから、1716年(享保元年)に吉宗は8代将軍となった。徳川御三家初の将軍である。吉宗は家康の治めた頃を理想としていた。しかしながら、政治の内容は紀州藩主の頃の改革を踏襲していた。将軍になってからは、まず、大奥と老中を味方につけたり、人材の登用の改革を行った。そして身分が低い者でも安心して役目が勤まるように「足高の制」を設けた。また、城下の様子を把握することにも努め、目安箱の設置や秘密警察の役割をする締戸番(お庭番)を配置した。目安箱の投書から、江戸は火事が多いことから町火消「いろは四十七組」を組織した。吉宗は老中に政治を任せることなく、自ら政治を行った将軍であったのだ。 しかしながら、財政は回復せず、「上げ米制」をとる。これは諸大名に石高1万石について100石の割合で米を上納させる代わりに、参勤交代の期限を半年に短縮するというものである。これによって、ひとまず危機は回避され、のちに撤廃されている。また、吉宗は新田開発にも力をそそぎ、増収策にも意欲的であった。法分野では「公事方御定書」などを編纂した。
吉宗は馬好きであり、西洋から馬を輸入し日本の馬の改良を進め、さらにゾウやダチョウなどの珍しい動物を輸入などした。また、動物だけでなく西洋の新しい物産・知識など役に立つもの、実用的なものは進んで取り入れた。その中でも、望遠鏡を輸入した際には天体に関心を抱き、西洋研究を導入するなど家臣にもオランダ語を勉強するよう勧めたという。この取り組みは、後に前野良沢や杉田玄白の「解体新書」など日本の近代化に大きな影響を与えることになる。
日本の様子を積極的に捉え、民の意見を参考に政治を行った吉宗。その政治はおおむね成功したといえるだろう。このことはその後、松平定信の寛政の改革や水野忠邦の天保の改革が、享保の改革を手本としたことからも窺える。また、財政回復のために厳しく質素倹約を行っただけでなく、民が楽しく生活できるよう江戸3大祭りを実施したことも、親しみやすい将軍であったのではないかと感じた。 鎖国の最中であったにもかかわらず、積極的に西洋の情報を入手し吸収していく様子からも、好奇心があることから、日本の鎖国という状態を吉宗はどのように捉えていたのだろうかと不思議にも感じさせられた。
大石慎三郎 1998「江戸大名 知れば知るほど」実業之日本社
角川春樹 1984「日本史探訪13 幕藩体制の軌跡」角川書店
河合敦 2005「スーパービジュアル版 早わかり日本史」日本実業出版社