坂下門外の変

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2009年1月30日 (金) 12:15の版
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坂下門外の変

事件経過 1862年1月15日。老中安藤対馬守信睦の行列は五時に西丸下の邸を出て、結梗門外から坂下門へと向かう途中に事件は起きた。警備は厳重を極めていて、徒頭士以下、徒士、大小姓ら四十五名が駕篭の周囲を固めていた。そこへ、直訴するかのように一人の男が迫ってきて、いきなり駕篭に向かって短銃を発砲した。しかし銃弾は駕篭をそれて脇の徒士に当たりその場に転倒させるだけになってしまう。その後、六人の襲撃者と警護の武士たちの切り合いが始まり、安藤に手傷を負わせることに成功したが、その後襲撃者全員がその場で切り殺されてしまった。

失敗の予兆 安藤信睦暗殺計画は、水戸の岩間金平、越惣太郎、西丸帯刀、園部伝吉らと、長州の桂小五郎、松崎剛蔵らによって進められていた。しかし、長州では公武合体派の長井雅楽が台頭して、水戸と長州の密約(水戸が行動をおこし、長州が事後処理を行うというもの)の当事者である桂小五郎と結んだ周布政之助は引退させられ、今までの活動が難しくなってしまう。さらに桜田門外の変の影響もあり、幕府高官に対する警備がますます厳重になっていった。このため、桂小五郎は、水戸に暗殺を延期したいと申し出る。しかし水戸藩はこれを無視し、王政復古をもくろんでいた宇都宮藩に同盟を持ちかける。そして1月15日に決行することを決めたのである。だが、この暗殺計画が宇都宮藩から漏れてしまい1月12日に宇都宮藩のメンバーは逮捕されてしまう。そのため水戸藩は自力で実行しなければならなくなってしまう。その人数はわずか7人という無謀とも思える人数で実行するのである。それに対して幕府側は、暗殺計画を知っていたので、安藤はこれまで以上に警備を強化し襲撃に備えていたのである。このためこの計画は最初から失敗することが決まっていたのである。

参考文献 幕末維新ガイド      まるわかり日本史


  人間科学大事典

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