津田梅子

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2009年1月30日 (金) 13:39の版
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 1871年(明治4年)、アメリカから帰ってきた開拓使の次官黒田清隆は、アメリカでは女性の地位が高く、教育が盛んで男女平等であることに驚き、さっそく女子教育についての意見を政府に出し、幼い女の子をアメリカに留学させることを提案した。

 津田梅子は、アメリカへの留学生として選ばれた女子5人のうち最年少であった。1871年11月、岩倉具視遣外使節一行とともに、彼女たちは横浜港からアメリカへ渡る。のちに文部大臣となった森有礼が梅子らの世話をした。梅子は私立学校に入り、英語・ラテン語・フランス語・天文学などを学ぶ。日曜学校にも通い、10歳でキリスト教の洗礼を受ける。1882(明治15)年、11年間の留学を終えて帰国。梅子は華族女学校(のち学習院)の教授補となり、英語を教えていたが、もっと学問をして新しい生き方を見つけたいと、2度目のアメリカ留学を決心する。1889(明治22)年から1892(明治25)年まで留学する。この留学中に、自分の一生の仕事は女子教育の開拓にあると心に決め、女子教育のための勉強を熱心に続ける。

 帰国した梅子は、華族女学校・女子高等師範学校(今のお茶の水女子大学)で教える。1900(明治33)年、ついに女子の英語教育を目的とする女子英学塾(今の津田塾大学)を創立する。最初は生徒10人あまりの小さな学校であったが、その熱意は66歳で生涯を終えるまでつづき、山川菊栄らを育てた。

 1898(明治31)年、万国婦人連合大会に日本婦人代表としてアメリカに行ったり、その翌年には、有名な看護婦ナイチンゲールとも会っている。1913(大正3)年には、世界キリスト教学生大会に出席するなど、国際的にも活躍した。


参考文献

『小学歴史人物』 赤尾文夫  旺文社   

『歴史の精解と資料』 藤井譲治 文英堂   


  人間科学大事典

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