津田梅子2

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2009年1月30日 (金) 14:02の版
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 元治元年12月8日(1864年12月31日)-1929年(昭和4年)8月16日)。日本の教育者。日本の女子教育の先駆者と評価される。

1871年(明治4年)に、岩倉使節団に随行して渡米する。岩倉使節団に加わっていた約60人の留学生のうち5人は日本で最初となる女子留学生たちであった。その中で梅子は最年少の満6歳であった。この小さな梅子の肩には新しい日本の女性の規範になるという大きな使命がかかっていた。 アメリカで梅子はワシントン郊外の家庭にホームステイして、愛情豊かな家族の元で大切に育てられた。梅子は英語のはか、フランス語、数学、物理学から音楽まで幅広く学び、それぞれで抜群の成績を収めた。学校の卒業式の日に来賓の大統領夫人の前でピアノを弾いたこともあった。 梅子は17歳までの青春時代をアメリカで過ごしたのち、親友の山川捨松(5人の留学生の一人)とともに、11年ぶりに日本に帰国した。帰国当初は日本語をうまく話せず、和食や畳で生活にもなかなかできなかった。儒学の価値観が色濃く残る日本においては女性が活躍できる職業分野も乏しく、梅子はアメリカで自分の受けてきた教育と日本の女性の現実との開きの大きさ悩んでいた。伊藤博文と再会し、梅子は伊藤への英語指導や通訳のために雇われ、「桃妖女塾」で英語教師として通った。  1899年に高等女学校令、私立学校令がそれぞれ公布されて法整備が整い、女子教育への機運が高まると、1900年に「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を開設する。華族平民の別のない女子教育を志向して一般女子の教育を始める。それまでの行儀作法の延長の女子教育と違い、少人数の女子生徒への個人指導を通して、専門教育を行おうとする画期的な試みであった。梅子は単に英語を教えるだけではなく、世界に目を向けた広い視野と自立心を育てることを目指した。 生涯、日本語よりも英語の法が得意で、講演の原稿を英語で書くほどだったが、「日本のいいものを悪いものと一緒に捨ててはいけない」と戒め、日本の伝統を大切にしていた。公式の場では常に和服であったのもその表れである。また、アメリカのルーズベルト元大統領にあった時、大統領夫人は梅子に「日本の伝統の中で大切なものは?」と質問し、梅子は「犠牲の精神と忠誠」と答え、日本の武士道を尊敬していた大統領を感動させたという話がある。  1929年64歳で死去。

参考資料 Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E6%A2%85%E5%AD%90

扶桑社 新しい歴史教科書 中学社会


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