平将門
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平将門 916~940年(享年38) 平安時代中期の武将。 桓武平氏の高望王(たかもちのおう、桓武天皇の5代目)の孫。 若い時に上京して摂政藤原忠平に仕えたが、帰郷する。その後、父の遺領や女性をめぐる問題(原因は複数説あり、はっきりしていない)から一族内で紛争が起こり、これが朝廷への反乱に発展した。(=将門の乱、承平の乱)。将門は関東の中央からの独立を目指し自らを新王と称したがわずか数カ月で鎮圧された。 首をめぐりさまざまな伝説がある。
将門の乱(承平の乱)935年 下総の猿島北西部の(茨城県)の領主である平将門が、叔父の平国香を殺害したことから始まった。はじめは一族の内紛だった。しかし将門が常陸の豪族と国司の間に介入(そのきっかけは、常陸国新治[にいはり]郡の土豪平真樹が、前常陸国大じょう、つまり、4段階ある中の上から3番目の国の役人である源護[みなもとのまもる]との紛争調停を、将門に依頼したことだった。)して、常陸・下野・上野の国府(*国府:警護のための律令体制の機関のひとつ)に襲われたところを、将門が逆に討ち破ったことから、朝廷に対する反乱に拡大していった。将門軍の勢いはすさまじかったらしく、筑波、真壁、新治の3郡500戸余りを焼き打ちにしたという。将門は朝廷から独立した国を作ろうとして自分を、「新皇」と名乗った。その後は自害した国香の息子の平貞盛と下野の押領司・藤原秀郷らに平定され、将門は討ち死にした。貞盛は桓武平氏の一員で、その子孫がかの有名な平清盛である。
将門にまつわる伝承 将門は、当時、まるでアメリカの未開の地のようだった関東平野の土地を開拓し、中央から派遣されてきた国司を破ったとして、英雄になった。そのため、死後には様々な伝説がうまれた。 その中でも、京都に運ばれて獄門にかけられたはずの将門の首が、三日後に白い光を放って東に飛んで行き、武蔵国豊島郡柴崎に落ちた。大地は轟き、太陽も光を失ってあたりは暗くなったという。村人は恐れて塚を築いて手厚く埋葬した。これが現在、東京都千代田区大手町1-1-1にある首塚である。しかし、その後もたびたび災いが発生したため、鎌倉時代に1,307年に真教上人が連阿弥陀佛という法号を贈り、石塔婆を立てて供養し、さらにそばの神田明神に祀って、ようやく治まった。
参考資料 『図解雑学日本の歴史』p.96~97ナツメ社2001年 http://heianjiten.fc2web.com/masakado.htm http://yururi.aikotoba.jp/samurai/history/masakado.html