キングJr.
出典: Jinkawiki
2009年1月30日 (金) 16:50の版 Bunkyo-student2008 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
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- | == 見出し == | + | 本名、マーティン・ルーサー・キングJr.(Martin Luther King, Jr)。アメリカ南部出身の黒人キリスト教牧師。1950年代、60年代における南部黒人公民権運動指導者。「非暴力・直接行動」を軸にした運動を通して、人種差別撤廃を目指した人物である。 |
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+ | == 学生時代と牧師への成り立ち == | ||
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+ | キングは、1929年1月15日にアメリカ南部ジョージア州アトランタで出生。アトランタの黒人社会における有力者の一人でもあった、黒人バプティスト教会牧師を父として持ったキングは、当時としては比較的豊かな幼年時代を過ごす。 | ||
+ | 1944年、アトランタの黒人大学、モアハウス大学に入学。モアハウス卒業前年の1947年に牧師となったキングは、北部ペンシルヴァニア州のクローザー神学校に学び、それに続いてボストン大学で神学を学び、1955年に博士号を授与される。大学、神学校時代を通じて、英国からの独立運動を率いたインドのマハトマ・ガンジーにより実践された「非暴力抵抗運動」の思想に傾倒する。 | ||
+ | 1954年、アメリカ連邦最高裁判所が、公立学校における法律による白人と黒人の人種分離教育を憲法違反とする画期的な「ブラウン判決」を下したその同じ年、キングはアラバマ州都モントゴメリーにある黒人教会、「デックスター通りバプティスト教会」で牧師としての生活を開始する。 | ||
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+ | == 黒人公民権運動 == | ||
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+ | 1955年12月、モントゴメリー市営バスにおける人種分離制度の撤廃を目指して、動詞の黒人が大規模なボイコット運動を率いたキングは、当時弱冠26歳の若さであったが、この事件をきっかけとして、彼は南部の無名の一黒人牧師から、全国的な知名度を持った黒人公民権運動指導者への階段をのぼり始めることとなる。このボイコット運動は、キングがその後の公民権運動を推進するにあたって重要な「非暴力・直接行動」の考えを貫いた、最初のケースとなった。 | ||
+ | 1955年、故郷アトランタへ戻ったキングは、「南部キリスト教指導者会議」を結成し、のちに「五大公民権運動団体」と呼ばれるようになる諸団体の一つとなる、この「指導者会議」の議長を務めた。 | ||
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+ | == 名演説“I Have a Dream” == | ||
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+ | 公民権運動指導者としてのわずか12年の間に、キングは多くの著作、説教、演説を残している。その中でも、1963年8月28日に17万人の黒人と3万人の白人参加者を集めて首都ワシントンで行われた「ワシントン大行進」でのキングによる基調演説は、おそらくもっとも有名なものの一つであろう。「私には夢がある」(“I Have a Dream”)と題されたこの演説において彼は、いつの日かすべてのアメリカ人が肌の色ではなく、人格によって判断される時が来ることを夢見、また信じたのである。1964年末にノーベル平和賞を受賞したキングは、民主党大統領、リンドン・B・ジョンソンのもとで、同年と翌年に制定された、連邦「公民権法」及び「投票権法」の成立に力を注いだ。 | ||
+ | キングにより実践された「非暴力・直接行動」の根幹には、「アガペ」(非打算的なキリスト教的愛)による救済的な思想が置かれていた。憎しみを受けることに対して、憎しみで返すのではなく、人種差別制度の中で実は最も魂を歪められているところの南部白人の救済をも、公民権運動における大切な目標として捉えたものこそ、キングによるこの「アガペ」の救済思想であった。 | ||
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+ | == その後の活動と暗殺 == | ||
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+ | 1960年代のなかばをこえると、キングは北部大都市における黒人居住区のスラム化問題や就業上の人種差別撤廃に取り組むようになった。それと同時に、単なる黒人公民権の枠を越えた、経済的平等、国際平和、そして人権問題を含む事柄にも関心を寄せるようになる。 | ||
+ | 1967年春、当時泥沼化が進行していたヴェトナム戦争へのアメリカによる介入に反対を表明した。キングは、政府による戦争遂行政策が、アメリカ国内における黒人の大多数が抱える貧困問題の解決に大きな障害となっていることを懸念し、反ヴェトナム戦争、反権力姿勢を次第に強めていくのであるが、これによりジョンソン大統領および民主党リベラル政治家との間に溝ができていくのであった。 | ||
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+ | 1968年4月4日、市の清掃労働者組合によるストライキを支援するために訪れていた、テネシー州メンフィスの宿泊先、ローレイン・モーテルで、暗殺者ジェームズ・レイの凶弾により死去。享年39の若さであった。 | ||
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+ | == 参考文献 == | ||
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アメリカ史重要人物101 猿谷要/編 新書館 | アメリカ史重要人物101 猿谷要/編 新書館 |
最新版
本名、マーティン・ルーサー・キングJr.(Martin Luther King, Jr)。アメリカ南部出身の黒人キリスト教牧師。1950年代、60年代における南部黒人公民権運動指導者。「非暴力・直接行動」を軸にした運動を通して、人種差別撤廃を目指した人物である。
目次 |
学生時代と牧師への成り立ち
キングは、1929年1月15日にアメリカ南部ジョージア州アトランタで出生。アトランタの黒人社会における有力者の一人でもあった、黒人バプティスト教会牧師を父として持ったキングは、当時としては比較的豊かな幼年時代を過ごす。 1944年、アトランタの黒人大学、モアハウス大学に入学。モアハウス卒業前年の1947年に牧師となったキングは、北部ペンシルヴァニア州のクローザー神学校に学び、それに続いてボストン大学で神学を学び、1955年に博士号を授与される。大学、神学校時代を通じて、英国からの独立運動を率いたインドのマハトマ・ガンジーにより実践された「非暴力抵抗運動」の思想に傾倒する。 1954年、アメリカ連邦最高裁判所が、公立学校における法律による白人と黒人の人種分離教育を憲法違反とする画期的な「ブラウン判決」を下したその同じ年、キングはアラバマ州都モントゴメリーにある黒人教会、「デックスター通りバプティスト教会」で牧師としての生活を開始する。
黒人公民権運動
1955年12月、モントゴメリー市営バスにおける人種分離制度の撤廃を目指して、動詞の黒人が大規模なボイコット運動を率いたキングは、当時弱冠26歳の若さであったが、この事件をきっかけとして、彼は南部の無名の一黒人牧師から、全国的な知名度を持った黒人公民権運動指導者への階段をのぼり始めることとなる。このボイコット運動は、キングがその後の公民権運動を推進するにあたって重要な「非暴力・直接行動」の考えを貫いた、最初のケースとなった。 1955年、故郷アトランタへ戻ったキングは、「南部キリスト教指導者会議」を結成し、のちに「五大公民権運動団体」と呼ばれるようになる諸団体の一つとなる、この「指導者会議」の議長を務めた。
名演説“I Have a Dream”
公民権運動指導者としてのわずか12年の間に、キングは多くの著作、説教、演説を残している。その中でも、1963年8月28日に17万人の黒人と3万人の白人参加者を集めて首都ワシントンで行われた「ワシントン大行進」でのキングによる基調演説は、おそらくもっとも有名なものの一つであろう。「私には夢がある」(“I Have a Dream”)と題されたこの演説において彼は、いつの日かすべてのアメリカ人が肌の色ではなく、人格によって判断される時が来ることを夢見、また信じたのである。1964年末にノーベル平和賞を受賞したキングは、民主党大統領、リンドン・B・ジョンソンのもとで、同年と翌年に制定された、連邦「公民権法」及び「投票権法」の成立に力を注いだ。 キングにより実践された「非暴力・直接行動」の根幹には、「アガペ」(非打算的なキリスト教的愛)による救済的な思想が置かれていた。憎しみを受けることに対して、憎しみで返すのではなく、人種差別制度の中で実は最も魂を歪められているところの南部白人の救済をも、公民権運動における大切な目標として捉えたものこそ、キングによるこの「アガペ」の救済思想であった。
その後の活動と暗殺
1960年代のなかばをこえると、キングは北部大都市における黒人居住区のスラム化問題や就業上の人種差別撤廃に取り組むようになった。それと同時に、単なる黒人公民権の枠を越えた、経済的平等、国際平和、そして人権問題を含む事柄にも関心を寄せるようになる。 1967年春、当時泥沼化が進行していたヴェトナム戦争へのアメリカによる介入に反対を表明した。キングは、政府による戦争遂行政策が、アメリカ国内における黒人の大多数が抱える貧困問題の解決に大きな障害となっていることを懸念し、反ヴェトナム戦争、反権力姿勢を次第に強めていくのであるが、これによりジョンソン大統領および民主党リベラル政治家との間に溝ができていくのであった。
1968年4月4日、市の清掃労働者組合によるストライキを支援するために訪れていた、テネシー州メンフィスの宿泊先、ローレイン・モーテルで、暗殺者ジェームズ・レイの凶弾により死去。享年39の若さであった。
参考文献
アメリカ史重要人物101 猿谷要/編 新書館