太閤検地

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2009年1月31日 (土) 03:13の版
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太閤検地

 太閤検地は、従来は地方によってまちまちであった土地面積の測定法を統一し、曲尺の6尺3寸の竹竿で計ってその平方を1歩、300歩を1段(1反)、10段を1町と定め、耕地の品位は、上・中・下・下々の4等級に分けて、上田1石5斗以下2斗下りを法定の見積もり収穫高と決めた。これを石高という。もちろん、こういう面積の測量・耕地品質の確定・石高の算出は、畦畔にくぎられた一筆ごとに行なわれる。  こうして、石高が決まれば、それに2/3をかけたものが納入するべき年貢米の高となった。そこで問題になるのは、その年貢負担者を誰にするかということであった。  まさにこの一点において、太閤検地は、その独自の農民支配政策をうちだしてくる。すなわち、この年貢米については、「今まで作りつかまつり候百姓、直納つかまつるべく候。」という原則が出され、現実の耕作者を年貢負担者として公認・登録することに決められた。  つまり、太閤検地とは長い間にわたって続いてきた名主の村落支配を否定し、名主の下に半分は家内奴隷的に従属していた下人・名子・被官といった人びとを一人前の農民として自立させ、名主の下人・名子・被官に対する搾取・使役を禁じた政策であるとみる事ができ、「百姓親子ならびに親類、家一に二世帯住むべからず、別々に家をつくりあるべきこと」という決まりも小家族の農民を独立させていく命令としてうけとることができる。  


 このような小農民自立政策は、旧来の支配者である荘園領主・守護大名・戦国大名たちがいずれも名主の支配を認め、名主を通じてその搾取・使役を行なってきたのに比べて、本質的な転回であり、このようにして名主の支配をはなれた小家族の小農民は、一地一作人の原則にもとづき、その耕地の所持者・耕作者として村ごとの検地帳に載せられ、その権利の保証とともに、子々孫々にいたる年貢納入の義務を負わせたのである。  こうして、荘園制のためにいりくんだ複雑さをみせた土地の所有権と利益権は、年貢収納者である大名領主と耕地保持者・年貢負担者である農民との単線的な二元関係に統合され、封建社会の基本的な構造がここに成立した。


参考文献: 家永三朗 黒羽清隆 「新講 日本史」 三省堂 


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