ペルシア戦争

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『古代ギリシア人の戦争』  市川 定春  新紀元社 『古代ギリシア人の戦争』  市川 定春  新紀元社

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ペルシア戦争は、前5世紀初頭,アケメネス朝ペルシアの大遠征軍をギリシア軍が撃退した戦争のことである。「ペルシア戦争」とは、ギリシア側からの呼称である。 この戦争は、2次にわたって繰り広げられたが、大兵力を動員し、圧倒的な戦力差をもって攻め込んだペルシアが2度も敗北を帰した。

戦争の経緯についてはヘロドトスの『歴史』がほぼ唯一の資料である。しかし、プルタルコスは『ヘロドトスの悪意』において、戦争の歴史的事実がヘロドトス個人の戦争観に歪められていると批判している。現代の歴史学者もペルシア戦争における細部の事実については頭を悩ませているが、最も重要な資料が『歴史』のみである以上、決定的なペルシア戦史の復元は困難である。


目次

イオニア反乱

戦いの発端は、小アジア西岸イオニア地方のギリシア諸市がペルシアの支配に対して蜂起した、いわゆる「イオニア反乱」にある。前500年、ミレトスの僭主アリスタゴラスは、自らその地位を退くとともに、他のイオニア諸市にも、当時ペルシアにより支配の手段として利用されていた僭主政を廃止するよう働きかけた。この呼びかけは、ペルシアの支配をはねのけようとする市民たちに広く受け入れられて、各市に反僭主・反ペルシアの運動が起こった。 これらイオニア諸市は同盟を結び、ギリシア本土に来援を求めてペルシアと戦い、サルディス、ビザンティオン、キプロスを攻めて成果をあげたが、ペルシア軍はやがて反攻に転じ、前494年、ラデ島沖の海戦で勝利を収め、ミレトスを占領して大勢を決した。イオニア諸市はふたたびペルシアの支配に服することとなるが、僭主政は復活されなかった。


ダリウス1世の遠征(ペルシア戦争第1回遠征)

反乱鎮圧後、ペルシアの目は、それぞれ20隻、5隻の艦船をイオニアに送ったギリシア本土のアテネ、エウボイア島のエレトリアの両市に注がれた。前492年に海路トラキア遠征を行ったのち、前490年、報復のためダリウス1世は大軍をギリシアに派遣した。ペルシア軍はエレトリアを制したのち、アテネを襲って北東岸のマラトン平野に上陸したが、約1万のアテネ軍はミルティアデスの作戦に従ってこれを破り、ペルシアのアテネ占領を阻んだ。これがマラトンの戦いである。


クセルクセス1世の遠征(ペルシア戦争第2回遠征)

遠征に失敗したペルシアは、その後ダリウスの子クセルクセス1世の下で軍備を整え、前480年、第一次遠征軍をはるかに上回る大軍を王自らが率いて、ふたたびギリシア本土を目指した。ギリシア側は、一部の都市を除き、スパルタとアテネを中心に結束を固め、エウボイア島の北端アルテミシオン岬と中部ギリシア北端のテルモピレー峠とを結ぶ線を海陸の防衛線と定めたが、二つの拠点はともに激戦のすえに破られた。 一方、ペルシア陸上軍はアテネに侵入する。この危機に際し、アテネの知将テミストクレスは、アテネ西方サラミス島東側の海峡にペルシア海軍を引き寄せて決戦を挑む策を連合軍の軍議で主張して、それを通し、陸上の玉座から観戦するクセルクセスの目の前でその大艦隊を壊滅させ、ペルシアのギリシア制圧の野望をくじいたのがサラミスの海戦である。 ペルシア陸上軍の一部は将軍マルドニオス指揮の下にギリシア北部にとどまったが、これも前479年、中部ギリシアのプラタイアで起こったプラタイアの戦いで、ギリシア連合軍に敗れ、撤退を余儀なくされた。 同じころイオニアのミカレ岬ではミカレ岬の戦いが起こり、上陸したギリシア軍が大勝して、イオニア独立への道を開いた。この後、ペルシア軍とギリシア連合軍との戦いは、主戦場を東方に移して続行される。


終結

前478年ギリシア軍はキプロス島の諸都市の反乱を助け、ビザンティオンを攻めて、いずれもペルシア支配からの解放に成功する。前477~8年デロス同盟成立後もギリシア側の攻勢は変わらず、前467年アテネの将軍キモンの指揮の下に、小アジア南岸エウリメドン河口でペルシア軍を破り、前459年にはエジプトでの反乱を助けるべく兵を送った。 しかしエジプト遠征軍は前454年に大敗を喫し、キプロスでもペルシア側の反攻にあって、前450年これを放棄するに至った。 この戦いでキモンが死亡したことは、アテネに和平の機運を生じさせ、前449~450年ギリシアとペルシアとの間での正式な和議、カリアスの和約が結ばれた。 ここに半世紀にわたるペルシア戦争は終結した。 イオニア諸市は独立を認められ、ペロポネソス戦争末期に至るまでペルシアの支配から逃れた。

ペルシア戦争は、東方の大国ペルシアと西方ギリシアの小国家の連合とが戦い、兵力において格段に劣るギリシアが世界の戦史に輝く大勝を陸上、海上を問わずに博したことで名高い。この勝利をギリシア側からみれば、各ポリスの市民たちが、自ら享受していた自由と平等を、1人の専制王と彼に服属する臣民とからなる異民族の大軍に対して守り通したことを意味した。 アテネをはじめギリシア諸市は、当時、民主政をほぼ確立し、市民たちの間には自らの国家を守る気概が満ちわたっていた。そのことがギリシア防衛を成功させた究極の原因とみられるが、このときの勝利はまた、東方の専制王国とは対照的な、自由な市民たちからなる世界についての自覚をギリシア人の間に芽生えさせ、以後のギリシアにおける政治と文化の著しい発展の重要なものとなった。


参考文献

『古代ギリシア人の戦争』  市川 定春  新紀元社

詳説 世界史   山川出版社

http://www.tabiken.com/history/doc/Q/Q266C200.HTM


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