カント

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イマヌエル・カント

 ケーニヒスベルグ(現ロシア領カリーニングラード)のうまれのドイツの哲学者である。デカルトからスピノザ、ライプニッツへと続く大陸合理論と、ロックに始まるイギリス経験主義、ルソーの社会契約説など、様々な思想を研究し、それらを練り直した上でカントは自らの哲学を構成した。彼の哲学は、近代哲学史の分水嶺とも呼ばれている。非常に規則正しい人物だったとされていて、街の人々はカントの毎日の散歩に合わせて時計の時刻を修正したとも伝えられている。


カントの生涯

1724年?4月22日

 ドイツのケーニヒスベルクに生まれた。父親は勤勉実直な馬具職人であり、母親は暖かくてしとやかな、感受性の豊かな人であったらしい。共にルターの精神にかえって敬虔な生活を送るピエティズム(敬虔主義)の熱心な信者であった。この家庭の雰囲気は後のカントの厳格主義に大きな影響を与えたと思われる。


1737年?

カント14歳の時に母親が死亡。その3年後にカントはケーニヒスベルク大学に入学。苦学しながらも熱心に勉強した。

1746年?

 大学卒業の年に父親も亡くし、大学に残ることを断念。卒業と同時に、当時研究者の道を歩む人たちの一般的なコースであった家庭教師になり、以後8年間、ケーニヒスベルク近郊で家庭教師の生活を送る。

1756年

 晴れて母校ケーニヒスベルク大学の私講師となる。私講師(Privatdozent)というのは、聴講する学生から直接授業料をもらう一種の非常勤講師で、学生の数がそのまま収入に直結するので、教える方も真剣で、高度な内容の講義が行われた。

1770年?

 47歳で教授に昇進したカントはいよいよ自らの哲学体系の構想を実現すべく、著作に取り組む。完成を期すうちに10年の歳月を要してようやく出版されたのが、カントの主著と言ってもよい、かの『純粋理性批判』である。この後に書かれた『実践理性批判』(1784年)と『判断力批判』(1790年)との3つの批判書がカントの代表作とされ、カントの哲学が別名「批判哲学」と呼ばれるようになった。その他に、今日でもよく知られている著作としては『啓蒙とは何か』(1784年)、『単なる理性の限界内の宗教』(1793年)、『永久平和のために』(1795年)などがある。

1804年?3月12日

 カントは生まれ育ち一生を過ごしたケーニヒスベルクで静かにこの世を去った。享年80歳。当時としては大往生である。研究熱心なカントは高い名声を得ていたが、生涯を通して地位にはあまり恵まれなかった。しかし、彼の死に際に残した言葉は「Es ist gut!(これでよい)」という満足の言葉であったと言わている。

参考文献:『面白いほどよくわかる 図解 世界の哲学・思想』小須田健 日本文芸社 2004

      『カント入門』石川文康  筑摩書房 1995

ハンドルネーム:hy0527


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