性善説

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2009年1月31日 (土) 15:33の版
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性善説

 性善説(せいぜんせつ)とは、人間の本性は基本的に善であるとする倫理学・道徳学説、特に儒教主流派の中心概念。人の本性に関する考察は古今東西行われてきたが、「性善説」ということばは儒家のひとり孟子に由来する。 性善説は四書の一つである「孟子」すなわち孟子と弟子の問答集の第三巻「公孫丑章句」すなわち公孫丑との対話の中に出てくる。


孟先生がいわれた。 「人間はだれでも、他人の悲しみを見すごすことのできない同情心をもっている。昔のりっぱな王様は、他人の悲しみに同情する心をもつばかりでなく、他人の悲しみに同情する政治をもたれた。他人の悲しみに同情する心で、他人の悲しみに同情する政治を実行することができたならば、天下を治めるのは、まるで手のひらの上でころがすように、自在にできるであろう。人間はだれでも、他人の悲しみに同情する心をもっているというわけは、今かりに、子供が井戸に落ちかけているのを見かけたら、人はだれでも驚きあわて、いたたまれない感情になる。子供の父母に懇意になろうという底意があるわけではない。地方団体や仲間で、人命救助の名誉と評判を得たいからではない。これを見すごしたら、無情な人間だという悪名をたてられはしないかと思うからでもない。このことから考えてみると、いたたまれない感情をもたぬ者は、人間ではない。羞恥の感情をもたぬ者も、人間ではない。謙遜の感情をもたぬ者も、人間ではない。善いことを善いとし、悪いことを悪いとする是非の感情をもたぬ者も、人間ではない。このいたたまれない感情は、仁の端緒である。羞恥の感情は、義の端緒である。謙遜の感情は、礼の端緒である。是非の感情は、智の端緒である。人がこういう四つの端緒をそなえていることは、人間が四肢をそなえているようなものである。この四つの端緒をもちながら、自分で仁義礼智を実行できぬというのは、自殺者である。自分の君主が仁義礼智が実行できないという人は、自分の君主の殺害者である。すべて、この四つの端緒を自分の内にそなえた者は、だれでもこれを拡大し充実することができる。火がはじめて燃えだし、泉源から水がはじめて流れ出すように、これを拡充すれば、じゅうぶんに世界を支配することができるし、もしこれを拡充することができなければ、父母にさえじゅうぶんにつかえることはできないのである」


参考文献:孟子、貝塚茂樹訳 世界の名著3 孔子 孟子 中央公論社


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