犬養毅
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備中国賀陽郡庭瀬村(現・岡山市川入)に大庄屋 犬飼源左衛門の次男としてうまれる(後に犬養と改姓)。一時二松学舎にも通い、最終学歴は慶應義塾退学。
郵便報知新聞(後の報知新聞)の記者として西南戦争に従軍(ちなみに、抜刀隊が「戊辰の復讐!」と叫びながら突撃した事実は、一説には犬養の取材によるものとも言われている)。東海経済新報記者をへて、1882年(明治16年)、大隈重信が結成した立憲改進党に入党し、活躍する。1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙で当選し、以後42年間で18回連続当選という、尾崎行雄に次ぐ記録を作る。後に中国地方出身議員とともに中国進歩党を結成する(ただし、立憲改進党とは統一会派を組んでいた)が、進歩党・憲政本党の結成に参加、1898年(明治31年)の第1次大隈内閣では共和演説事件で辞任した尾崎の後を受けて文部大臣となった。1913年(大正2年)の第一次護憲運動の際は第3次桂内閣打倒に一役買い、尾崎行雄(咢堂)とともに「憲政の神様」と呼ばれた。しかし、当時所属していた立憲国民党は首相桂太郎の切り崩し工作により大幅に勢力を削がれ、以後犬養は辛酸をなめながら小政党を率いることとなった(立憲国民党はその後革新倶楽部となる)。犬養は政治以外にも神戸中華同文学校の名誉校長を務めるなどしていた。
身を乗り出して演説を行う犬養(政友会総裁のころ)犬養は第2次山本権兵衛内閣で文相兼逓信大臣を務めた後、第2次護憲運動の結果成立した第1次加藤高明内閣(護憲三派内閣)においても、逓信相を務めた。しかし犬養は、ほどなくして小政党を率いることに限界を感じて革新倶楽部を立憲政友会に吸収させ、自身も政界から引退する。だが、世間は犬養の引退を許さず、岡山の支持者たちは勝手に犬養を立候補させ、衆議院選挙で当選させ続けた。さらに政友会総裁の田中義一が没すると後継総裁をめぐって内紛が生じ、犬養は幹部に乞われて1929年(昭和4年)に第6代立憲政友会総裁に就任する。1930年(昭和6年)ロンドン海軍軍縮条約に統帥権干犯を絡めて、鳩山一郎とともに政府を攻撃した。これは軍部に統帥権を武器として使えることを教え、自らの死につながった。1931年(昭和6年)12月に立憲民政党(民政党)の若槻禮次郎内閣が崩壊したため、反対党の総裁である犬養に組閣の大命が降下、内閣総理大臣に就任する。世界恐慌、そして満州事変の最中という荒波の中の船出であった。大蔵大臣には高橋是清を任じ、組閣と同時に金輸出再禁止を行い積極財政をとるなど、不況対策に努めた。また、外務大臣には女婿の芳澤謙吉を任じることにより、軍部に左右されがちな外交政策をリードしようとした。犬養の就任後は桜田門事件、血盟団事件と不穏なテロ事件が相次ぎ、ファッショ排撃を訴えた犬養自身も五・一五事件で、海軍将校の凶弾に倒れてしまった。享年77。墓所は港区の青山霊園と岡山にある。
ハンドル名:Dowango