ディエンビエンフーの戦い

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2009年4月30日 (木) 11:26の版
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・ディエンビエンフーの戦い  ・ディエンビエンフーの戦い 
-1954年3月13日、インドシナ戦争における「ディエンビエンフーの戦い」が始まった。 1945年9月のベトナム民主共和国の独立宣言をきっかけに、旧宗主国フランスとベトナム民主共和国との間で「第一次インドシナ戦争」が勃発。戦争はインドシナ全体に波及し、冷戦による東西対立とともに長期化した。 53年11月、フランス軍はベトナム軍の主力部隊をおびきよせて劣勢を挽回し、またラオスを防衛する目的で、ラオスとの国境に近いベトナム北部の盆地の町、ディエンビエンフーに大規模な要塞の構築を始めた。しかし、ベトナム軍は盆地を囲む険しい山岳地帯に、密かに大砲やロケット砲などの大型火器を引き上げて要塞を包囲。 54年3月13日に戦闘が始まるが、フランス軍は予想外の苦戦を強いられ、5月初旬に降伏した。 +ディエンビエンフーの戦い(ベトナム語:Tr?n Đi?n Biên Ph?, フランス語:Bataille de Đi?n Biên Ph?)は、1954年3月から5月にかけてベトナム北西部のディエンビエンフー(ベトナム語:Đi?n Biên Ph?, 漢字:奠邊府)で起こった、第一次インドシナ戦争中最大の戦闘。ベトナム軍とフランス軍合わせ約1万人の戦死者を出した。同戦争の大きな転機となり、フランスはベトナム撤退を余儀なくされることになる。
-  「ディエンビエンフーの戦い」での戦死者は両軍合わせて1万人以上にのぼり、第一次インドシナ戦争における最大の戦闘となった。この敗北を受けてフラン   スは和平を模索し、7月にはジュネーブ協定で停戦が成立、ベトナム民主共和国の独立が承認された。 +フランス軍は劣勢の打開とラオス防衛を目的に、米国の大規模な支援を受けて1953年11月から険しい山々に囲まれたディエンビエンフーの盆地に滑走路および大要塞の構築を開始 [1]、アンリ・ナヴァール(Henri Navarre)将軍指揮下の精鋭外人部隊など、歩兵17個大隊、砲兵3個大隊、1万6千にも及ぶ兵力を投入し、クリスチャン・ド・カストリ(Christian de Castries)大佐を司令官とした。周囲の山岳地帯は険しく、大砲を持ち込むのは労力的に不可能と思われていた。
 +対するヴォー・グエン・ザップ(武元甲)率いるベトナム民主共和国人民軍はソ連・中華人民共和国から大量の武器・弾薬の援助を受け、昼夜兼行の[人海戦術]]を用いて大砲・ロケット砲・対空火器を山頂に引き上げ、要塞を見下ろす位置に設置、密かに要塞を包囲していった。供与された武器の中には、中国大陸に遺棄された旧日本陸軍の山砲も含まれており、活用されたと言われる。
-参考文献    http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0313&f=column_0313_002.shtml +人民軍(ベトミン軍)は3月13日に要塞内、特にフランス側の砲兵陣地や滑走路に対する砲撃を開始し、その後56日間に亘って包囲戦を展開した。
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 +まずベアトリス陣地、続いてガブリエラ陣地がそれぞれ夜間攻撃を受けて陥落。フランス側は反攻を組織し、戦車小隊を含む部隊をそれぞれ送ったが奪回はならなかった。
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 +続いて、ベトナム側は塹壕をフランス側陣地の周囲に巡らし、イザベル陣地とディエンビエンフー本体との間の交通を遮断した。この頃にはアンヌ=マリー陣地からはフランス軍のベトナム人兵士の脱走が相次ぎ、フランス側は止むをえず拠点を放棄して後退。その後はディエンビエンフー本体を見下ろす東側丘陵でもベトナム側が優位に戦いを進めた。フランス側では滑走路が破壊されていたため、物資の補給を空路からのパラシュート投下に依存していたが、ベトナム側の対空砲火や天候不順のためなかなか届かない状況[2]で次第に後退を重ねていった[3]。
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 +フランス軍兵士は投入兵力が過少なため低地に小さく全周陣地を作ったため、雨季に入ると腰まで泥水につかる劣悪な環境を忍びつつ懸命に陣地構築に勤めたが、各陣地は決戦に備えて大量に養成されていた人民軍正規部隊の擲弾兵による突撃と機関銃掃射に晒され、滑走路の破壊と喪失に伴う物資の途絶に悩まされ、植民地出身兵士の多くが戦意を喪失し、5月7日に要塞は陥落した。
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 +2万人強のフランス軍部隊のうち、少なくとも2,200人が戦死し、1万人以上が捕虜となった。10万人以上とみられる人民軍のうち、8,000人が戦死し、15,000人が負傷した。
 +この一戦はジュネーヴ和平会談の行方に大きく影響を与え、7月21日のジュネーヴ協定締結とインドシナからのフランスの全面撤退へとつながった

2009年5月8日 (金) 14:14の版

・ディエンビエンフーとは

 ベトナム北西部のラオス国境に近い町。フランス軍駐屯地があったが、1954年にべトミンの攻撃を受け、陥落。

・ディエンビエンフーの戦い 

ディエンビエンフーの戦い(ベトナム語:Tr?n Đi?n Biên Ph?, フランス語:Bataille de Đi?n Biên Ph?)は、1954年3月から5月にかけてベトナム北西部のディエンビエンフー(ベトナム語:Đi?n Biên Ph?, 漢字:奠邊府)で起こった、第一次インドシナ戦争中最大の戦闘。ベトナム軍とフランス軍合わせ約1万人の戦死者を出した。同戦争の大きな転機となり、フランスはベトナム撤退を余儀なくされることになる。

フランス軍は劣勢の打開とラオス防衛を目的に、米国の大規模な支援を受けて1953年11月から険しい山々に囲まれたディエンビエンフーの盆地に滑走路および大要塞の構築を開始 [1]、アンリ・ナヴァール(Henri Navarre)将軍指揮下の精鋭外人部隊など、歩兵17個大隊、砲兵3個大隊、1万6千にも及ぶ兵力を投入し、クリスチャン・ド・カストリ(Christian de Castries)大佐を司令官とした。周囲の山岳地帯は険しく、大砲を持ち込むのは労力的に不可能と思われていた。

対するヴォー・グエン・ザップ(武元甲)率いるベトナム民主共和国人民軍はソ連・中華人民共和国から大量の武器・弾薬の援助を受け、昼夜兼行の[人海戦術]]を用いて大砲・ロケット砲・対空火器を山頂に引き上げ、要塞を見下ろす位置に設置、密かに要塞を包囲していった。供与された武器の中には、中国大陸に遺棄された旧日本陸軍の山砲も含まれており、活用されたと言われる。

人民軍(ベトミン軍)は3月13日に要塞内、特にフランス側の砲兵陣地や滑走路に対する砲撃を開始し、その後56日間に亘って包囲戦を展開した。

まずベアトリス陣地、続いてガブリエラ陣地がそれぞれ夜間攻撃を受けて陥落。フランス側は反攻を組織し、戦車小隊を含む部隊をそれぞれ送ったが奪回はならなかった。

続いて、ベトナム側は塹壕をフランス側陣地の周囲に巡らし、イザベル陣地とディエンビエンフー本体との間の交通を遮断した。この頃にはアンヌ=マリー陣地からはフランス軍のベトナム人兵士の脱走が相次ぎ、フランス側は止むをえず拠点を放棄して後退。その後はディエンビエンフー本体を見下ろす東側丘陵でもベトナム側が優位に戦いを進めた。フランス側では滑走路が破壊されていたため、物資の補給を空路からのパラシュート投下に依存していたが、ベトナム側の対空砲火や天候不順のためなかなか届かない状況[2]で次第に後退を重ねていった[3]。

フランス軍兵士は投入兵力が過少なため低地に小さく全周陣地を作ったため、雨季に入ると腰まで泥水につかる劣悪な環境を忍びつつ懸命に陣地構築に勤めたが、各陣地は決戦に備えて大量に養成されていた人民軍正規部隊の擲弾兵による突撃と機関銃掃射に晒され、滑走路の破壊と喪失に伴う物資の途絶に悩まされ、植民地出身兵士の多くが戦意を喪失し、5月7日に要塞は陥落した。

2万人強のフランス軍部隊のうち、少なくとも2,200人が戦死し、1万人以上が捕虜となった。10万人以上とみられる人民軍のうち、8,000人が戦死し、15,000人が負傷した。 この一戦はジュネーヴ和平会談の行方に大きく影響を与え、7月21日のジュネーヴ協定締結とインドシナからのフランスの全面撤退へとつながった


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