ホメイニ

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-1902~1989+== 生い立ち ==
-イラン革命を進めたシーア派指導者。+1902年9月24日、ホメイニは「神の魂」を意味するルッホラーの名を受けて、ホメイン地方に生まれた。おじ、父親、そして兄も、シーア派の宗教的指導者であるアヤトッラーという聖職についた家柄であった。ホメイニが生まれて数ヶ月で、シャー(王)に反抗する戦いに参加したとして、父親が暗殺されている。おばに育てられ、イスラムの原理を実現させるのは言葉ではなく、敵対する異教徒との戦いであると教えられた。
 +ホメイニは1927年よりコムでコーランにもとづく法を教え、すぐに神学部で最も重要なウラマーのひとりとなった。また、パンを浸した一杯のスープでおのれを満足させ、5,6時間しか睡眠をとらずに読書とコーランによる瞑想で夜を過ごしたホメイニは、「ジハード」を実践する指導者として崇拝された。ジハードとは、第一義には聖戦ではなく、よりよくなるために自己と戦うことを意味する。
-ホメイニはテヘラン南方のコムで学んで指導的な法学者(ウラマー)となったが、親米・独裁政治を続けていた国王シャー・パフラヴィーを糾弾する演説を行い、1964年11月4日逮捕され、トルコへ国外追放となる。 
-1965年10月、ホメイニはイラクにあるシーア派の聖地ナジャフにある神学校行きの許可を受け、イスラーム法の研鑚を行った。+== 独立への執着 ==
 +シーア派の伝統に忠実なアヤトッラーであるホメイニにとって、宗教と政治は不可分のものだった。
-イラクで13年もすごしているうちに、イランではまさにシャー・パフラヴィーの独裁による政治が専横を極め、国民は反体制のデモを各地で繰り広げるようになっていた。 +イマームであるホメイニは、連合国の圧力により1941年に退位するまでレザ=ハンを批判し、その後は息子モハンマド=レザと熾烈な争いを繰り広げた。この時期から、自由、独立、外国支配の拒絶がホメイニの特に主張するところとなった。
-すると、ホメイニはまたしても、シャー・パフラヴィーを糾弾。+
-その後パリへ亡命し、そこでも演説を行い、革命を指導していく。+
 +1944年、ホメイニは最初の著作の中で非宗教化をすすめるシャーの政策を強く批判している。彼の論は、国はまさに危機に瀕しているが、なぜならシャーの体制が支配勢力の道具となって、国の自由と独立を奪っているからである、というものである。
-1979年1月16日、国王が亡命すると、ホメイニは2月1日、入れ替わるように帰国。+1961年、ホメイニはアヤットラーのなかでもマルジャエ=タグリド(模範)とよばれる地位についた。政治、経済、社会文化といったあらゆる分野で展開された、過激なまでの体制批判は、シャーの怒りをかった。1963年6月3日のホメイニ逮捕には何千人という人々が抗議にくりだしたが、政府はこれに激しい弾圧を加えている。翌年釈放されたホメイニはコムに戻り、シャーに強く抗議する声明を述べている。「有職者を投獄、殺害して、いったいどのように国を近代化したいのか」
-4月1日、イラン・イスラーム共和国が成立し、革命のシンボル的存在として、ホメイニは最高指導者に就任する。10余年にわたって正教一致の強硬な政治を展開した。これでイラン・イスラーム革命は成立となったが、ホメイニは革命の輸出を唱え、周辺諸国と対立していくこととなる。+
-参考  http://www.geocities.com/inazuma_jp/iranrevolusion.html+== 追放と革命 ==
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 +その弾劾演説によってホメイニはトルコに追放された。抗議行動を恐れたトルコの指導者たちにより、イラクにあるシーア派の聖地ナジャフへと移されてから、ホメイニは政治活動を強化し始める。ホメイニはテヘランと結びつきがあり、イラク人口の半数はシーア派教徒だったため、イラクのイスラム指導者は争いの元となるホメイニを受け入れることを望まず、ホメイニは1978年10月5日、パリへ逃れた。ここにおいてホメイニは、活発な政治的活動を公に展開し始めた。
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 +そしてシャーの体制に対立するあらゆる勢力と同盟を結び、モハンマド=レザ=パーラビに最後の戦いを挑んだ。1979年1月16日シャーは国外へ逃れ、ホメイニはついにパーラビ朝に終止符を打つ。2月1日、ホメイニはテヘランに凱旋帰国を果たした。
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 +3月30日の国民投票によって王制は正式に廃止され、イスラム共和国建国が宣言された。革命のシンボル的存在として、ホメイニは最高指導者に就任し、10余年にわたって正教一致の強硬な政治を展開した。
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 +== ホメイニの死 ==
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 +ホメイニは1989年6月3日死去した。3日後に行われた葬儀には、熱狂した数百万のイラク人が殺到した。
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 +ここから、ホメイニは報復の人とされることになる。パーラビ朝を転覆させ、宗教者たちの力を回復した報復者として、つねにスンナ派の迫害を受けた、少数派であるシーア派の報復者として、そしてイスラム教を伝え、その言語を強要してきたアラブ人に対する、ペルシア人の報復者として名を残すことになるのである。
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 +参考文献   ラルース 世界史人物百科

2009年5月16日 (土) 17:56の版

目次

生い立ち

1902年9月24日、ホメイニは「神の魂」を意味するルッホラーの名を受けて、ホメイン地方に生まれた。おじ、父親、そして兄も、シーア派の宗教的指導者であるアヤトッラーという聖職についた家柄であった。ホメイニが生まれて数ヶ月で、シャー(王)に反抗する戦いに参加したとして、父親が暗殺されている。おばに育てられ、イスラムの原理を実現させるのは言葉ではなく、敵対する異教徒との戦いであると教えられた。

ホメイニは1927年よりコムでコーランにもとづく法を教え、すぐに神学部で最も重要なウラマーのひとりとなった。また、パンを浸した一杯のスープでおのれを満足させ、5,6時間しか睡眠をとらずに読書とコーランによる瞑想で夜を過ごしたホメイニは、「ジハード」を実践する指導者として崇拝された。ジハードとは、第一義には聖戦ではなく、よりよくなるために自己と戦うことを意味する。


独立への執着

シーア派の伝統に忠実なアヤトッラーであるホメイニにとって、宗教と政治は不可分のものだった。

イマームであるホメイニは、連合国の圧力により1941年に退位するまでレザ=ハンを批判し、その後は息子モハンマド=レザと熾烈な争いを繰り広げた。この時期から、自由、独立、外国支配の拒絶がホメイニの特に主張するところとなった。

1944年、ホメイニは最初の著作の中で非宗教化をすすめるシャーの政策を強く批判している。彼の論は、国はまさに危機に瀕しているが、なぜならシャーの体制が支配勢力の道具となって、国の自由と独立を奪っているからである、というものである。

1961年、ホメイニはアヤットラーのなかでもマルジャエ=タグリド(模範)とよばれる地位についた。政治、経済、社会文化といったあらゆる分野で展開された、過激なまでの体制批判は、シャーの怒りをかった。1963年6月3日のホメイニ逮捕には何千人という人々が抗議にくりだしたが、政府はこれに激しい弾圧を加えている。翌年釈放されたホメイニはコムに戻り、シャーに強く抗議する声明を述べている。「有職者を投獄、殺害して、いったいどのように国を近代化したいのか」


追放と革命

その弾劾演説によってホメイニはトルコに追放された。抗議行動を恐れたトルコの指導者たちにより、イラクにあるシーア派の聖地ナジャフへと移されてから、ホメイニは政治活動を強化し始める。ホメイニはテヘランと結びつきがあり、イラク人口の半数はシーア派教徒だったため、イラクのイスラム指導者は争いの元となるホメイニを受け入れることを望まず、ホメイニは1978年10月5日、パリへ逃れた。ここにおいてホメイニは、活発な政治的活動を公に展開し始めた。

そしてシャーの体制に対立するあらゆる勢力と同盟を結び、モハンマド=レザ=パーラビに最後の戦いを挑んだ。1979年1月16日シャーは国外へ逃れ、ホメイニはついにパーラビ朝に終止符を打つ。2月1日、ホメイニはテヘランに凱旋帰国を果たした。

3月30日の国民投票によって王制は正式に廃止され、イスラム共和国建国が宣言された。革命のシンボル的存在として、ホメイニは最高指導者に就任し、10余年にわたって正教一致の強硬な政治を展開した。


ホメイニの死

ホメイニは1989年6月3日死去した。3日後に行われた葬儀には、熱狂した数百万のイラク人が殺到した。

ここから、ホメイニは報復の人とされることになる。パーラビ朝を転覆させ、宗教者たちの力を回復した報復者として、つねにスンナ派の迫害を受けた、少数派であるシーア派の報復者として、そしてイスラム教を伝え、その言語を強要してきたアラブ人に対する、ペルシア人の報復者として名を残すことになるのである。    

     

参考文献   ラルース 世界史人物百科


  人間科学大事典

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