ムジャヒディン
出典: Jinkawiki
2009年6月23日 (火) 13:46の版 Bunkyo-student2008 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
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■名称 イスラム教の大義にのっとったジハードに参加する戦士たちの事を指す。アラビア語で「ジハードを遂行する者」を意味するムジャーヒドの複数形。 今日ではソ連軍のアフガニスタン侵攻後、それに対して立ち上がったイスラム教徒ゲリラの総称として使われることが多い。イスラム武装勢力。
■1987年、ソ連の南下侵攻
国内の共産党の影響力が増すにつれ、アフガン国内・国外(主にペシャワール)では反共運動が盛んになった。ペシャワールでは組織された反体制ゲリラが活動を始めていた。
ソ連はこのゲリラを口実に使い、「アフガニスタンの治安が悪化したため、これを回復させる」ことを建前として軍を進めた。
(しかし、実際は不凍港や中東の石油、アメリカの同盟国であるパキスタン進行が目的であったと見られている)
■アメリカ・パキスタン・サウジアラビアの対応、援助。
アメリカはソ連の拡張(共産主義の拡張)を阻止するため、アフガニスタンの人々に「武器」と「ゲリラ戦術」を提供した。 パキスタンは国境を接するアフガニスタンがソ連の完全支配下に入った場合自国の安全が脅かされるため、「軍事施設」を提供した。
サウジアラビアもアフガニスタンの市民を応援したが、そもそも宗教を禁じるソ連はイスラムの敵であり、またソ連が中東の石油に手を伸ばせば自分たちの石油ビジネスが脅かされるからであったと考えられている。そしてこの国も「資金」を惜しみなく提供した。
また、パキスタンとサウジアラビアは世界のムスリムに「イスラムの危機」を知らせた。これに呼応した世界中のムスリムたちがアフガニスタンに終結した。義勇兵として、ソ連に対抗する「人員」までもが揃ったことになる。 アフガン・ムジャヒディンは、米国らが支援する反ソ突撃隊になろうとしていたと言える。
■ムジャヒディン構成員
アフガンに暮らす普通の人々が大半である。外部の国から駆け付けたムスリムであっても、決して戦闘のプロばかりではなかった。国内外のごく普通の学生、会社員、大学教授たちは支援大国の援助と指導により、「イスラムを守るための聖戦」の名のもとにゲリラ戦に特化した兵士に成長した。イスラム世界独特の身内意識には恐れ入るばかりである。
■主な軍閥
後に大統領となるラバニの軍であるマスード勢力。北部のウズベク人軍閥を束ねるラシッド・ドスタム将軍勢力。イスラム党を率い、パキスタンから価値を見出されていたヘクマティアル勢力。ヘラート等の西部を支配していたイスマイル・ハン勢力、などがある。
■ウサマ・ビン・ラディン
ソ連による侵攻を受けてサウジアラビアが提供した援助の一つが、王室に近かったラディン一家(大財閥)である。ウサマは駐アフガニスタン・サウジ王国公式代表に任命され、ムジャヒディンとしてソ連軍とたたかった。更にサウジアラビアの皇太子の委任により、個人財産を生かしてアフガン義勇兵のスポンサーとなり、さらにエジプトなどから義勇兵を募集して組織化しアフガニスタンに送り込んだ。
資料によってはまだ若かった彼が自ら志願したという記述もあるが、定かではない。
アフガン紛争後もアル・カイダの訓練キャンプをアフガニスタン国内に設置したり、米政府に追われた際はタリバンに匿われる等、ムジャヒディンとしての活躍後もアフガニスタンとは密接な繋がりがあるといえる。
■ジハード終結
ジハードは、米国、中国そしてアラブ諸国が資金と武器をムジャヒディンに注ぎ込んだために一層勢いをつけた。この戦争でムジャヒディンに加わっていないアフガン人含め150万人が死亡したといわれ、1992年にソ連軍がアフガニスタンから撤退して終わった。
参考リンク
「@-rans:ムジャヒディン政権誕生」
http://www.funk.ne.jp/~a-rans/afghan/afg_3.html
「ウィキペディア:ムジャーヒディーン」
--Bunkyo-student2008 2009年6月17日 (水) 19:28 (JST) Cos