八十年戦争

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八十年戦争は、スペインの支配下にあったネーデルラント17州が、スペイン政府に対して起こした反乱。結果、北部7州はネーデルラント連邦共和国を誕生させた。世界一悲惨な戦争だったといわれる。ネーデルラントの反乱、またはオランダ独立戦争ともいう。



目次

背景

   フェリペ2世が父から継承したネーデルラントはもともとヨーロッパでもっとも裕福な土地といわれた旧ブルゴーニュ公国の一部であり、中世以来、毛織物工業によって栄えた。原料を加工する技術に優れていたほか、ポルトガルから輸入した東洋産品を搬入して全ヨーロッパに売りさばく中継基地だった。したがって、ここからの税収はフェリペ2世にとっては大切な収入源であった。この地域は南部と北部では文化的・宗教的に大きな違いがあり、カトリック教徒が多く都市化が進んでいる南部に対し、北部はカルヴァン派の新教徒が多く、農業と海上貿易に依存していた。


発端

 フェリペ2世が、トレント公会議の決定を厳格に守り、プロテスタントの弾圧、重税賦課、都市や貴族の特権制限等を行い、中央集権化を図った。また、1567年にネーデルラント総督に着任したアルバ公がこの圧政を強化(“スペイン人の横暴”)したため、フランドル、ブラバント両州で亡命者1万人が北部やヨーロッパ各地へ流れた。彼らは、次第に当時ドイツにいたオラニエ公ウィレム(オレンジ公ウィリアム、沈黙公)の元に集まった。


戦争

 独立軍は乞食党を中心に、兵力で圧倒してくるスペイン軍に対し、町中に張り巡らされた水路を利用してゲリラ戦を繰り広げた。水路の張り巡らされた土地ではスペイン軍は乞食党にスペイン軍は勝つことができず、アルバ公は失脚した。特に、アルクマール市の攻防戦はもっとも劇的な戦いとなった。また、1574年5月、アルバ公の後任である、レクェセンスはライデン市の包囲作戦を実行、市民はペストや食糧不足に苦しみながらも戦い抜き、オラニエ公が周囲の堤防を決壊させ、周囲を水浸しにして市を救った。(ライデンの戦い)


終結

 オラニエ公ウィレムは、民衆に共感し、独立軍を率いてきたが、貴族と、より危険に晒されているプロテスタント市民の間には大きな溝があり、スペイン軍が各地で勝利をし始めると、両者は分裂した。スペイン側の政治的駆け引きもあいまって、南部は戦争から撤退した。これがベルギーとオランダの国境を決めることとなった。1584年オラニエ公が暗殺されるまで戦争は北部のみ継続するが、1581年独立宣言を発し、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)が成立した。 この戦争は、近代的な反乱(信仰の自由、国家独立を求めるもの)と解釈されがちだが、結果として近代的な社会が生まれることとなったが、その根本は極めて中世的なものである。


参考文献

http://www.lcv.ne.jp/~kohnoshg/site10/RWar3.htm

・地域からの世界史 西ヨーロッパ  佐藤彰一、松村赳著 朝日新聞 1992-1993

・世界の歴史:図説5 東アジアとヨーロッパ JMロバーツ著/月森佐知、高橋宏訳 創元社 2003


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