花見

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2009年7月22日 (水) 15:04の版
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   花見は、儀式のひとつであり、農民が、春から夏にかけて特定の山に登り、神迎えをして、共同で飲食をして農作業の開始を祝祭する「山遊び」のひとつであり、また、桜の咲き具合でその年の稲の収穫を占うなど、生活に基づいた神事だった。貴族の間では、奈良時代に中国から伝来したばかりの梅の花を観賞する習慣が生まれ、平安時代になると、桜に変わっていった。貴族の間では桜を庭園に植えることが流行し、その代表例が左近の桜である。桜の存在感の移り変わりは歌にも現れており、万葉集には桜を詠んだ歌は40首、梅を詠んだ歌は100首ほどあるが、古今和歌集ではその数が逆転している。花といえば桜と意味するようになったのもこの頃からである。鎌倉時代には後嵯峨上皇が桂離宮亀山殿の背後にある嵐山に吉野の桜を植え、花見を楽しんだ。室町時代、足利氏は「花の御所」と呼ばれる、季節ごとによりどりの花が咲く室町殿を完成させ、この頃から上流階級では春の花見、秋の紅葉狩りは恒例化してきた。また、豊臣秀吉だ行った「醍醐の花見」は有名である。

 花見の風習が庶民に広まったのは、江戸時代、徳川吉宗の頃である。吉宗は上野寛永寺に計画的に桜を植え、江戸市民のレクリエーションの場として開放した。寛永寺は、徳川将軍家墓所があり、様々な制約(鳴り物、夜桜などの禁止)があったが、吉宗はそれらを廃止し、寛永寺は江戸庶民の遊楽の場となった。公共の公園第1号といわれる。その他、墨田堤や、品川の御殿山、小金井に桜を植えたのも吉宗である。元禄の頃は、緋毛氈を敷き、琴笛を奏でる豪華な酒宴であったが、18C半ばになると楽しみ方も変化し、団体で桜並木を歩きながら桜を楽しむという形が主流となった。王子飛鳥山、品川御殿山、小金井などが、気軽に日帰りできる行楽地として人気であった。幕末では、女性が、島田髷に花簪、そろいの日傘で、子供は片袖を抜き、手ぬぐいを首に巻くというのが流行の花見スタイルであった。桜の語源は、「さ=神、くら=立つ」で、「神が立つ」という意味である。  現代では桜の開花予想が気象庁から発表され、同じ開花日に予想された地域と地域を結んだ線は桜前線と呼ばれる。しかし温暖化が進行すると、桜が咲かない地域がでてくるという予想もあり、桜の花見が将来的にできなくなってしまう可能性も危惧される。  桜の木の下に茣蓙を敷き靴を脱いで酒宴をするという花見は、日本独特の文化である。また沖縄には、本来花見の習慣は存在しない。


参考文献 江戸歴史探検1~年中行事を体験する~ 監修 東京都江戸東京博物館 責任編集 鈴木章生 http://kyoto.nan.co.jp/knowledge/hanami.html


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