ホメイニ
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2009年7月29日 (水) 12:08の版 Daijiten2009 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
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3月30日の国民投票によって王制は正式に廃止され、イスラム共和国建国が宣言された。革命のシンボル的存在として、ホメイニは最高指導者に就任し、10余年にわたって正教一致の強硬な政治を展開した。 | 3月30日の国民投票によって王制は正式に廃止され、イスラム共和国建国が宣言された。革命のシンボル的存在として、ホメイニは最高指導者に就任し、10余年にわたって正教一致の強硬な政治を展開した。 | ||
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+ | テヘランの学生たちがアメリカ大使館に乱入し、館員を人質とした。関係各国、機関の調停が実らず、13日にはアメリカによるイラン原油全面輸入停止とイランの対米原油輸出停止が同時に発表され“石油断交”の強硬措置がとられた。さらに15日には、アメリカはイランの在米資産の凍結を行い、外向的、経済的制裁を加えていっている。 | ||
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+ | 大使館員を人質としたまま、80年4月を迎えても解決のきざしはみられなかった。事態を憂慮したカーター大統領は、4月7日イランとの国交断絶を声明し、食糧品と医薬品を除く全品目の対イラン禁輸、凍結されているイラン政府資産の没収準備などを発表した。 | ||
+ | カーター大統領はようやく任期満了直前の81年1月19日に、米・イラン人質解放協定の調印にこぎつけた。同協定によって、イランは52人の人質(一部は11月に解放されている)を解放し、アメリカは凍結していたイラン在米資産を返還することになり、この紛争は442日ぶりに解決をみることになった。 | ||
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参考文献 ラルース 世界史人物百科 | 参考文献 ラルース 世界史人物百科 | ||
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生い立ち
1902年9月24日、ホメイニは「神の魂」を意味するルッホラーの名を受けて、ホメイン地方に生まれた。おじ、父親、そして兄も、イスラム教シーア派の宗教的指導者であるアヤトッラーという聖職についた家柄であった。ホメイニが生まれて数ヶ月で、シャー(王)に反抗する戦いに参加したとして、父親が暗殺されている。おばに育てられ、イスラムの原理を実現させるのは言葉ではなく、敵対する異教徒との戦いであると教えられた。
ホメイニは1927年よりシーア派の聖地コムでコーラン(イスラム教の聖典)にもとづく法を教え、すぐに神学部で最も重要なウラマー(イスラムにおける知識人)のひとりとなった。また、パンを浸した一杯のスープでおのれを満足させ、5,6時間しか睡眠をとらずに読書とコーランによる瞑想で夜を過ごしたホメイニは、「ジハード」を実践する指導者として崇拝された。ジハードとは、第一義には聖戦ではなく、よりよくなるために自己と戦うことを意味する。
独立への執着
シーア派の伝統に忠実なアヤトッラーであるホメイニにとって、宗教と政治は不可分のものだった。
イマーム(イスラムにおける指導者)であるホメイニは、連合国の圧力により1941年に退位するまで、シャーであったレザ=ハンを批判し、その後は息子モハンマド=レザと熾烈な争いを繰り広げた。この時期から、自由、独立、外国支配の拒絶がホメイニの特に主張するところとなった。
1944年、ホメイニは最初の著作の中で非宗教化をすすめるシャーの政策を強く批判している。彼の論は、国はまさに危機に瀕しているが、なぜならシャーの体制が支配勢力の道具となって、国の自由と独立を奪っているからである、というものである。
1961年、ホメイニはアヤットラーのなかでもマルジャエ=タグリド(模範)とよばれる地位についた。政治、経済、社会文化といったあらゆる分野で展開された、過激なまでの体制批判は、シャーの怒りをかった。1963年6月3日のホメイニ逮捕には何千人という人々が抗議にくりだしたが、政府はこれに激しい弾圧を加えている。翌年釈放されたホメイニはコムに戻り、シャーに強く抗議する声明を述べている。「有職者を投獄、殺害して、いったいどのように国を近代化したいのか」
追放と革命
その弾劾演説によってホメイニはトルコに追放された。抗議行動を恐れたトルコの指導者たちにより、イラクにあるシーア派の聖地ナジャフへと移されてから、ホメイニは政治活動を強化し始める。ホメイニはテヘランと結びつきがあり、イラク人口の半数はシーア派教徒だったため、イラクのイスラム指導者は争いの元となるホメイニを受け入れることを望まず、ホメイニは1978年10月5日、パリへ逃れた。ここにおいてホメイニは、活発な政治的活動を公に展開し始めた。
そしてシャーの体制に対立するあらゆる勢力と同盟を結び、モハンマド=レザ=パーラビに最後の戦いを挑んだ。1979年1月16日シャーはエジプトへ逃れ、ホメイニはついにパーラビ朝に終止符を打つ。2月1日、ホメイニはテヘランに凱旋帰国を果たした。
3月30日の国民投票によって王制は正式に廃止され、イスラム共和国建国が宣言された。革命のシンボル的存在として、ホメイニは最高指導者に就任し、10余年にわたって正教一致の強硬な政治を展開した。
アメリカとの関係
エジプトに亡命したパフラヴィーはその後アメリカへ入国した。その引渡しを要求して1979年11月4日、アメリカ大使館占拠事件が起こる。
テヘランの学生たちがアメリカ大使館に乱入し、館員を人質とした。関係各国、機関の調停が実らず、13日にはアメリカによるイラン原油全面輸入停止とイランの対米原油輸出停止が同時に発表され“石油断交”の強硬措置がとられた。さらに15日には、アメリカはイランの在米資産の凍結を行い、外向的、経済的制裁を加えていっている。
ホメイニ師はアメリカ大使館をスパイの巣窟として、イスラム法廷で裁判を行い死刑にすると発表、人質に不測の事態が起こった場合、アメリカは報復的軍事行動をとる可能性があるとカーター政権は発表した。
大使館員を人質としたまま、80年4月を迎えても解決のきざしはみられなかった。事態を憂慮したカーター大統領は、4月7日イランとの国交断絶を声明し、食糧品と医薬品を除く全品目の対イラン禁輸、凍結されているイラン政府資産の没収準備などを発表した。 カーター大統領はようやく任期満了直前の81年1月19日に、米・イラン人質解放協定の調印にこぎつけた。同協定によって、イランは52人の人質(一部は11月に解放されている)を解放し、アメリカは凍結していたイラン在米資産を返還することになり、この紛争は442日ぶりに解決をみることになった。
ホメイニの死
ホメイニは1989年6月3日死去した。3日後に行われた葬儀には、熱狂した数百万のイラク人が殺到した。
ここから、ホメイニは報復の人とされることになる。パーラビ朝を転覆させ、宗教者たちの力を回復した報復者として、つねにスンナ派の迫害を受けた、少数派であるシーア派の報復者として、そしてイスラム教を伝え、その言語を強要してきたアラブ人に対する、ペルシア人の報復者として名を残すことになるのである。
参考文献 ラルース 世界史人物百科
http://www.jiyu.co.jp/GN/cdv/backnumber/200209/topics04/topic04_07.html