クリステン・コル

出典: Jinkawiki

(版間での差分)

2010年1月22日 (金) 00:33の版

クリステン・ミケルセン・コル(Christen Mikkelsen Kold')(1816~1870)は、デンマークの最高の教育者である。師範学校卒業後、代用教員などをしながら、試験のない自由な学校をつくり、近代デンマークの義務教育のあり方に影響を与えた。彼は、デンマーク独自の民衆のオルタナティヴ教育・対抗教育の創始者の一人であり、現代でも多大なる社会的な影響力を持っている。彼が実践した教育は、今日では、公教育の中に取り入れられ、デンマークの公教育における中心思想となり、近代デンマークの教育のあり方を決定した。

彼の教育思想と実践は、私見では、スイスのペスタロッチに匹敵するような重要性を近代の教育学史において持つと思われるが、不幸にして公教育に対抗する民衆教育という性格、すなわち反権威主義という性格のゆえに対外的な宣伝や国際的な評価の獲得などにあまり関心を持たず、他国に広く知られることは無かった。また、小国デンマークでの実践とデンマーク語という制約も大きかったために、北欧諸国を除けば隣国ドイツにいくつかの研究論文や著書、彼の童話の翻訳があるにとどまっている。しかし、現代においてはバルト三国や東欧諸国などを中心に、民主化の過程における教育の一つの指針としてコルの実践と教育思想が注目されるなど、国際的な評価も高まってきている。

コルは、理論家、著述家ではなく教育の実践者であったので、生涯で一つの著作しか残していない。それが、1850年に書かれた懸賞論文への応募作『子どもの学校論』である。しかし、これは入選しなかったために筐底の奥深くにしまわれ、公表されたのは彼の死後七年たってからである。

子どもの学校論

子どもの能力と必要に応じた教育

初等学校の教育が、もっぱら理性に向かって語りかけて感情にはただ部分的にしか語りかけず、その一方でファンタジー、つまり想像力をほとんど無視してきたのは犯罪的な過ちである。

この過ちの原因が、次の点にあるのは確かである。すなわち、デンマーク民族が古い民族であり、[グルントヴィの民族の発展段階を示す]精神的な自然の摂理によれば、今、デンマーク民族が理性の時代に来ているからである。おまけに、哲学的な民族のドイツ人がこの理性重視の点で大きな影響を与え、この反省の精神をさらに促進した。したがって、この理性重視の傾向は、その限りではデンマーク民族には疎遠なもので本性では決してない。

デンマークの民族は確かに古いのだが、この民族が若い頃や壮年期に持っていたほど豊かなファンタジーと温かい感情を今は持っていない。この事態が進むのをこれ以上防ぐことはできないというのに、他方ではゆりかごの中の子どもに、世界はそれ自体神によって創造されたものではなく、世界には永遠に存在するものが無いということの証明を無理やり与えて、子どもにあごひげをつけて大人に仕立てるような真似が過度に進んでいる。

[理性重視の]過ちは、最も悲しむべき帰結をもたらした。即ち、基本的にはやはり証明できないようなもの、あるいはただ確信されるだけでそのための証明は理解されえないようなものに証明を与えようとするのである。しかし、子どもの心はファンタジーを通し、証明できないようなことを子どもらしい信仰心で明快に喜んで受け入れることができるものだ。また、概念が全く存在しないか、あったとしてもごくわずかしかないようなところで教理問答式の解決を与えようとしたり、概念にまとめたりしようとするのも同じく悲しむべき帰結である。

隠して人は、授業の方法について、すでにあるファンタジーを通して子どもを成長させる代わりに、何よりもまず、まだ成熟に至っていない知性の発達ばかりを意図して、子どもの[ファンタジーの]能力を全くといっていいほど顧慮しなかったのである。この無理解な方法の理由は、子どもは動物であり、しつけや指導で人間になるべきであるという考えを、意識的であれ、無意識的であれ人が信じ込まされざるを得なかったという点にある。そしてその際、すでにある子どもの能力を伸ばして発展させるということはしないのである。

確かに、デンマーク民族はいかなる哲学的な著作、あるいは体系さえも古代から受け継いではいない。しかし、祖先たちの遺産を見れば豊かな物語という富を持っている。それは、ユダヤ人とギリシャ人を別にすれば、いかなる世界の民族もほとんどもち得なかったものである。同様に、先祖達のあらゆる観念、宗教的なものも市民社会的なものも、それらはみなイメージにくるまれ、みな想像力から作られ、そして想像力に訴えるために伝えられてきたのである。

ちょうど樹がその果実によって知られるように、民衆の自覚もそれが開く展望によって知られるべきだということが真実ならば、現在の民衆の自覚は果実の落ちてしまった樹だといえるだろう。というのも、[今の時代のように]生の展望が[分析されて]細切れにされたり、串刺しにされたりするときほど生が暗い展望を持つことは無いからである。

したがって、ここから考えられることは、教理問答方式の詰め込み教育はそれにふさわしい場所、例えば規定された解答から成り立つ数学や幾何学、そして普通の算数の授業において使ったほうがよいということだ。しかし聖書の歴史、祖国の歴史、あるいはそのほか人間を宗教的組織及び市民社会の生き生きした成員にするべき教育なら全て、物語を使えば一番確かに、一番簡単にその目的を果たすことができる。

それゆえ、結論としては、古い民話、物語、そして伝説あるいは歴史の話がその本来あるべきところに再び置かれなければならないということである。デンマーク民族の一部を無し、何千年も通じて民族の生に深く貫いてきた詩的な素質は、再び目覚めるべきであり、どんなにわずかであろうとも語られなければならない。さもなくば、人々は生の退屈さにうんざりするか、物質主義と感覚主義の荒れ狂う波で押し流されてしまうだろう。


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