クリステン・コル
出典: Jinkawiki
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クリステン・コル 著 清水満 編訳 『コルの「子どもの学校論」―デンマークのオルタナティヴ教育の創始者―』 新評論 2007年 | クリステン・コル 著 清水満 編訳 『コルの「子どもの学校論」―デンマークのオルタナティヴ教育の創始者―』 新評論 2007年 | ||
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+ | 清水満 著 『新版・生のための学校―――デンマークで生まれたフリースクール「フォルケホイスコーレ」の世界』 新評論 1996年 | ||
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+ | http://www.asahi-net.or.jp/~pv8m-smz/ |
2010年1月22日 (金) 01:56の版
クリステン・ミケルセン・コル(Christen Mikkelsen Kold')(1816~1870)は、デンマークの最高の教育者である。師範学校卒業後、代用教員などをしながら、試験のない自由な学校をつくり、近代デンマークの義務教育のあり方に影響を与えた。彼は、デンマーク独自の民衆のオルタナティヴ教育・対抗教育の創始者の一人であり、現代でも多大なる社会的な影響力を持っている。彼が実践した教育は、今日では、公教育の中に取り入れられ、デンマークの公教育における中心思想となり、近代デンマークの教育のあり方を決定した。
彼の教育思想と実践は、私見では、スイスのペスタロッチに匹敵するような重要性を近代の教育学史において持つと思われるが、不幸にして公教育に対抗する民衆教育という性格、すなわち反権威主義という性格のゆえに対外的な宣伝や国際的な評価の獲得などにあまり関心を持たず、他国に広く知られることは無かった。また、小国デンマークでの実践とデンマーク語という制約も大きかったために、北欧諸国を除けば隣国ドイツにいくつかの研究論文や著書、彼の童話の翻訳があるにとどまっている。しかし、現代においてはバルト三国や東欧諸国などを中心に、民主化の過程における教育の一つの指針としてコルの実践と教育思想が注目されるなど、国際的な評価も高まってきている。
コルは、理論家、著述家ではなく教育の実践者であったので、生涯で一つの著作しか残していない。それが、1850年に書かれた懸賞論文への応募作『子どもの学校論』である。しかし、これは入選しなかったために筐底の奥深くにしまわれ、公表されたのは彼の死後七年たってからである。
目次 |
子どもの学校論
子どもの能力と必要に応じた教育
初等学校の教育が、もっぱら理性に向かって語りかけて感情にはただ部分的にしか語りかけず、その一方でファンタジー、つまり想像力をほとんど無視してきたのは犯罪的な過ちである。
この過ちの原因が、次の点にあるのは確かである。すなわち、デンマーク民族が古い民族であり、[グルントヴィの民族の発展段階を示す]精神的な自然の摂理によれば、今、デンマーク民族が理性の時代に来ているからである。おまけに、哲学的な民族のドイツ人がこの理性重視の点で大きな影響を与え、この反省の精神をさらに促進した。したがって、この理性重視の傾向は、その限りではデンマーク民族には疎遠なもので本性では決してない。
デンマークの民族は確かに古いのだが、この民族が若い頃や壮年期に持っていたほど豊かなファンタジーと温かい感情を今は持っていない。この事態が進むのをこれ以上防ぐことはできないというのに、他方ではゆりかごの中の子どもに、世界はそれ自体神によって創造されたものではなく、世界には永遠に存在するものが無いということの証明を無理やり与えて、子どもにあごひげをつけて大人に仕立てるような真似が過度に進んでいる。
[理性重視の]過ちは、最も悲しむべき帰結をもたらした。即ち、基本的にはやはり証明できないようなもの、あるいはただ確信されるだけでそのための証明は理解されえないようなものに証明を与えようとするのである。しかし、子どもの心はファンタジーを通し、証明できないようなことを子どもらしい信仰心で明快に喜んで受け入れることができるものだ。また、概念が全く存在しないか、あったとしてもごくわずかしかないようなところで教理問答式の解決を与えようとしたり、概念にまとめたりしようとするのも同じく悲しむべき帰結である。
隠して人は、授業の方法について、すでにあるファンタジーを通して子どもを成長させる代わりに、何よりもまず、まだ成熟に至っていない知性の発達ばかりを意図して、子どもの[ファンタジーの]能力を全くといっていいほど顧慮しなかったのである。この無理解な方法の理由は、子どもは動物であり、しつけや指導で人間になるべきであるという考えを、意識的であれ、無意識的であれ人が信じ込まされざるを得なかったという点にある。そしてその際、すでにある子どもの能力を伸ばして発展させるということはしないのである。
確かに、デンマーク民族はいかなる哲学的な著作、あるいは体系さえも古代から受け継いではいない。しかし、祖先たちの遺産を見れば豊かな物語という富を持っている。それは、ユダヤ人とギリシャ人を別にすれば、いかなる世界の民族もほとんどもち得なかったものである。同様に、先祖達のあらゆる観念、宗教的なものも市民社会的なものも、それらはみなイメージにくるまれ、みな想像力から作られ、そして想像力に訴えるために伝えられてきたのである。
ちょうど樹がその果実によって知られるように、民衆の自覚もそれが開く展望によって知られるべきだということが真実ならば、現在の民衆の自覚は果実の落ちてしまった樹だといえるだろう。というのも、[今の時代のように]生の展望が[分析されて]細切れにされたり、串刺しにされたりするときほど生が暗い展望を持つことは無いからである。
したがって、ここから考えられることは、教理問答方式の詰め込み教育はそれにふさわしい場所、例えば規定された解答から成り立つ数学や幾何学、そして普通の算数の授業において使ったほうがよいということだ。しかし聖書の歴史、祖国の歴史、あるいはそのほか人間を宗教的組織及び市民社会の生き生きした成員にするべき教育なら全て、物語を使えば一番確かに、一番簡単にその目的を果たすことができる。
それゆえ、結論としては、古い民話、物語、そして伝説あるいは歴史の話がその本来あるべきところに再び置かれなければならないということである。デンマーク民族の一部を無し、何千年も通じて民族の生に深く貫いてきた詩的な素質は、再び目覚めるべきであり、どんなにわずかであろうとも語られなければならない。さもなくば、人々は生の退屈さにうんざりするか、物質主義と感覚主義の荒れ狂う波で押し流されてしまうだろう。
コルの言葉のアンソロジー
人は、学校に行くことでどのようになるのか
コルがデンマークを歩き回って分かったことは,学校に一度も行ったことの無いストーブの端にいるような老人のほうが、学校へ行ったことのある中年の大人たちよりも生き生きとして心が温かく、信仰深く、精神が宿り、詩心もあり、より心を開いて疑い深くないということだ。学校へ言った大人たちは、自分たちの退屈で単調な勉強で無味乾燥になり、消耗し、精神も枯れ果ててしまっている。
フォルケスコーレ(公立学校)は変革されうるか?
人が改革について語るときは、かつては良いもので正しいものと思われていたものが何か悪くなって正しいものでなくなったので、それらが処分されなければならない、なぜなら、本来の正しいことは前進するものであるからという考えに基づいている。
教会の改革については、そのように語ることはできるだろう。ここには、前進すべき本来の善きものがある。すなわち、主による生の秩序をもった聖礼典がそれである。しかし、学校の改革というものを試してみると、それは、タマネギの皮をむくようなものだと分かるだろう。一枚の皮をむくとまた一枚残っている。皮を全部むいてしまえば、後は何も残らない。[学校の改革などこういうものである]。
知識
知識はよく奉仕してくれるものだ。しかし、まず生命がこなければならない。人間は注意深くあるべきだ。人間は、何が若者を啓発するのかを知らない。知識は彼らに働きかけ、以前よりも単純にしてしまう。知識で若者を立ち止まらせず、世界の善きものを若者から奪うようなものを与えないようにしよう。生命の樹(「生命の樹」は『旧約聖書』創世記に出てくるもので、「善悪の樹」とならんでエデンの園の中心にある樹。これも神は人間に食べることを許さなかった。)が庭の真ん中になければならない。子どもと若者はまずはその生命の樹の果実を味わう機会を持たなければならず、善悪の知識の樹の実はその次なのである。彼らが最初に生命の樹の果実を味わえば、その次の知識の樹の果実も良いものとなるだろう。
競争
子どもたちに詰め込みの勉強を強いることが限界に来ているということはますます明らかである。そうだとすれば、他のやり方があると人は言う。だが、それがもっと無害に見えたところで、根本的には良い方法などというものは無いのである。競争させることを知っているもののもとでは、人は利己心に目覚めるものだ。子供たちをそのように引っ張っていこうとするとき、多くの人たちは利己心は子どもたちにとって良いものと信じている。しかし、それは天国の馬車に地獄の馬をつなげるようなものである。それは危険なことだ。というのも、地獄の馬は地獄に戻るときが一番早くて、喜んでそこに戻るからである。
コルの教育思想
フリースクール、エフタースクールの創始者
クリステン・コルはフリースクール(friskole)の創始者である。そして、現代デンマークにおいて最も注目を集めるエフタースクール(efterskole)の共同創立者でもある。枯れは、近代デンマークの発展において、国家の行なう義務教育の対抗教育として民衆教育を自ら実践し、ついには近代デンマークの公教育まで変えてしまった人だった。世界の教育史において特異な存在であるが、彼は思想家、著述家ではなく、あくまでも現場教員として生涯を教育実践に費やした。
フリースクールは、2007年現在、デンマーク全国に259校存在する。児童数は約三万人である。フリースクールを含むオルタナティヴな学校(私立学校)は483校あり、児童生徒数は90403人である。一方、公立学校は1593校で、総児童生徒数は600422人となっている。オルタナティヴな学校は全学校数の23パーセントを占め、児童生徒数では全体の13パーセントを占めている。特に、グルントヴィとコルの伝統を直接に引き継ぐフリースクール群は、学校数では12.4パーセント、児童生徒数では4パーセントを占めるにとどまっているが、コルの伝統を同様に引き継ぐエフタースクールを入れれば、2005年のエフタースクールの生徒数が24930人で、学校数は約250校なので、学校数で24.5パーセント、児童生徒数では約8パーセントを数えることになる。学校数に比して児童生徒数の割合が低いのは、フリースクール、エフタースクールとも少人数制の教育を柱としているためである。
フリースクールは、18歳以上の若者が通う全寮制のオルタナティヴな学校であるフォルケホイスコーレと呼応してデンマークの農民運動、民衆教育運動として展開されてきたが、彼らの求める「国家からの教育の自由」というあり方が他のオルタナティヴな学校の認可につながった。
現在、デンマークの義務教育段階のオルタナティヴな学校は、フリースクール以外にも教科教育を重視する私立学校(privatskole)1968年世代のラディカルな自由教育の流れを受け継ぐリレ・スクール(lilleskole)、カトリック系学校、保守的プロテスタント系学校、ドイツ系マイノリティーの学校という五つの系列があり、公立学校、フリースクールとあわせてデンマークにおける教育の多様性、少数者の教育の自由というものを保障している。こうした多様性、少数者の尊重という姿勢は、グルントヴィとコルにひきいられたオルタナティヴな民衆教育運動がもたらした成果であるといってよい。
フリースクールの名前は「国家からの教育の自由」に由来する。創立時からこの「国家からの教育の自由」を標榜していたために、カリキュラムや教育内容の独自性を持っていた。そして、国家あるいは教会が指定する教科書を使わず、また試験をしないことが大原則となった。
フリースクールやホイスコーレを出た農民達が社会的に活動して議員になったり政権政党となったりした歴史があるので、基本的にデンマークでは国家による教育の管理という色彩が弱くなっている。教科書検定もなければ、指導要領というものも存在しない。教育省が出すガイドラインがあり、その枠内であれば各学校の自由裁量に任されて言う。フリースクールやエフタースクール、そしてリレ・スクールは教科教育を少なめにしてワークショップや総合的な学習を多く配置している傾向が強く、学校ごとに特徴が異なっている。
エフタースクールは、コルの盟友ポウルセン-ダール(Anders Christian Poulsen Dahl')(1826~1899)によって1879年から始められたものであるが、当初はホイスコーレに行くにはまだ年齢が幼い14歳から18歳までの若者がいく全寮制の学校であった。ホイスコーレのジュニア版として、農民の子弟がグルントヴィとコルの思想に基づく農民教育、民衆教育を学ぶ場であったが、時代の要求に応じて中学の一部という形態をとるようになり、この20年間においてはデンマークで最も成功したオルタナティヴな学校となり、入学定員をはるかに超える学生の需要に対応を追われているほどである。
エフタースクールの多くは自然豊かな地方に位置し、そこで生徒と教員達が共同で暮らす教育コミュニティをつくって教科重視教育ではない自由な教育を学ぶ場所となっている。グルントヴィ・コルの伝統を継承する学校以外に多くのモダンな学校ができて、環境教育、自然教育、芸術・表現教育、記録や競争を重視しない体育教育などを特色とする多様な教育内容と、多感な思春期に親元を離れて自立的な生活を友人達を送るという魅力が評価されると同時にその成果が口コミで広がって多くの若者の人気を集めている。
デンマークでは、義務教育は日本と同じく9年であるが、自分の意志でもう一年延ばして学ぶことができる第10学年の制度がある。多くのエフタースクールはこの第10学年を過ごす場として提供されており、思春期の若者のモラトリアム期間、自分を見つめ直して様々なことを考え、いろいろな体験にチャレンジする一年として活用されたのである。ただ、現政権(ラスムッセン首相が率いる中道右派内閣)が2005年に第9学年を修了後は直接に上級学校への進学を奨励する施設をとり始めたので、第10学年を送る若者はその分不利となった。しかし、多くの反対運動の成果によって、2007年の春にはこの決定が取りやめとなり、第10学年の意義が維持されている。
エフタースクールのあり方やその教育内容は、若者達の支持が示すように、今の時代に最もふさわしいものになっている。彼らは一年間にわたる寮生活を送るわけだが、多くは相部屋となるために友と語る時間が多くなる。掃除や炊事も、自分たちで当番を決めて自立的にこなしていく。学校の授業も、たとえば環境教育重視の学校であれば有機無農薬の農場で働き、自然教育重視の学校であればアウトドア・ライフの基本を野外で学び、最後はグループでクロスカントリースキーや自転車でのたびによる仕上げを行なう。このような活動のなかで友情と共同性を培い、あるいは自己の内面を見つめてアイデンティティを確立していくのである。先進国における若者の孤独、あるいはいわゆる「引きこもり」や「ニート化」がいわれて久しいが、エフタースクールにあっては、学校として、それらの傾向に抗する機会と場の提供を行なっていることになる。
コルが『子どもの学校論』で論じた教育は、こうした学校群の中に引き継がれて生きた伝統として今も活発に実践されている。そのうえで教員達は、現代の教育理論や教育思想、あるいはユニークな教育実践を学び、さらに自分たちの創意工夫を加えて色々な試行錯誤を行なっている。そのような多様な教育活動の自由を許すもの、あるいはそれを喚起するものとしてコルの教育思想が生きているのである。また、それが絶対の権威で、これ以外は認めないというような教条としてではないということが極めて重要なことである。
グルントヴィの影響
コルの思想と実践を語るときには、どうしてもグルントヴィの影響を無視することはできない。『講演録』にも書かれているように、コル自身がグルントヴィに面会したのは学校を始めようとする前であり、若い頃から個人的にグルントヴィと親しかったわけではない。すでに著述家としてデンマーク全土にその名が知れ渡っていたグルントヴィと、地方の無名の代用教員及び家庭教師に過ぎないコルとは、その立場が天と地ほどに違っていたといえるだろう。
コペンハーゲン在住のグルントヴィ主義者達とは異なり、コルは個人的にグルントヴィの家に出入りするような関係ではなかった。あくまでもグルントヴィの著書を通してその思想に共鳴をしたに過ぎないが、実は『講演録』で言及している以上にグルントヴィとの関係は深い。それは、彼とかかわり、彼を支援した人々の多くがグルントヴィ派の牧師や農民達であり、コルが出入りしていた地方のサークルはグルントヴィ・ムーブメントの人たちであったからである。
コルが通ったスネステズ師範学校の教員アルグレーン、校長ブラマー、そしてブラマーの後任校長であるルーヴィ・C・ミュラーがそうであるし、コルの覚醒を喚起したスクレッペンボー、コルが師範学校を卒業した後に最初に家庭教師をしたセーレンセン地方監督、豪農クヌーセン、一緒にトルコに行ったハス牧師、コルを支援したビルケダールやクリスチャン・ラーセン、ポウル・ラスムッセンなど、みんはグルントヴィの影響を受けた宗教社会改革運動に属していた人々である。そういう意味では、コルも特別に自覚することなくグルントヴィ・ムーブメントのなかにいたのであり、その渦中で彼の思想と実践を確立してきたことになる。それゆえ、彼の考えとグルントヴィは切っても切り離せない関係を持つのである。
参考文献
クリステン・コル 著 清水満 編訳 『コルの「子どもの学校論」―デンマークのオルタナティヴ教育の創始者―』 新評論 2007年
清水満 著 『新版・生のための学校―――デンマークで生まれたフリースクール「フォルケホイスコーレ」の世界』 新評論 1996年