南アフリカ共和国
出典: Jinkawiki
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2010年2月9日 (火) 02:53の版
概要
南アフリカ共和国は、アフリカ大陸最南端に位置する共和制国家である。南西部は南大西洋に面し、南部から東部にかけてはインド洋に面している。首都はプレトリア、イギリス連邦加盟国。公用語はアフリカーンス語、英語、バントゥー諸語(ズールー語、コサ語、北ソト語、ソト語、スワジ語、南ンデベレ語、ツォンガ語、ツワナ語、ヴェンダ語)の11言語であり、国内で最も多くの人に話されている言葉は東部で話されているズールー語であるが国内人口比22%程度である。アフリカーンス語はオランダ植民地時代にオランダ語と現地の言葉が融合した言語で西部の広い地域で話されている。英語は全人口の8.2%の人に話されているに過ぎない。しかし、イギリスの植民地時代に普及した英語が共通語的役割を果たし国会でも英語が使われている。かつては、アフリカーンス語も英語とともに共通語としての役割を担っていたが、アパルトヘイト撤廃後、その地位は低下している。 人種の割合は黒人 (77%)、白人 (9.5%)、カラード(白人と、サン人やコイコイ人など先住民族との混血を中心にした混成グループで、奴隷として連れられてきたインドネシアやマレー系の住民との混血も含まれる。使用言語はおもにアフリカーンス語 9%)、インド系(印僑 3%)。白人の多くは、イギリス系とアフリカーナーに二分される。宗教は8割の国民がキリスト教で、残りはヒンドゥー教、イスラム教などである。ユダヤ教の信者や無宗教者も少数存在する。
歴史
南アフリカには、紀元前数千年頃から、もともと狩猟民族のサン族(ブッシュマン)と同系統で牧畜民族のコイ族(ホッテントット)が住んでいたと言われている。また、300~900年代に現在のカメルーンに相当する赤道付近に居住していた現在のバンツー系のアフリカン(黒人)が南下してほぼ全域に定着した。ヨーロッパで大航海時代が始まった15世紀末の1488年に、ポルトガル人のバルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸南端の喜望峰に到達し、1497年には同じポルトガルのバァスコ・ダ・ガマがナタールを発見した。ヨーロッパ人の入植は、ずっとあとになった1652年にオランダ人のヤン・ファン・リーベックがオランダ東インド会社の東洋貿易の中継基地として、ケープタウンに居留地をつくったのが始まりである。喜望峰は航海上の重要な拠点として注目されており、オランダ人移民は増加し、ケープ植民地が成立した。オランダからの移民たちは、自らをボーア(オランダ語で農民)と称して入植地を開拓していった。このボーア人の勢力の拡大によってサン族やコイ族などの先住アフリカ人との争いも起きたのである。18世紀末から19世紀の初頭にかけて、ヨーロッパでナポレオン戦争が起こると、喜望峰をインド航路の重要拠点と認識したイギリスは、金やダイヤモンドの鉱脈を狙って、この地を占領しようとした。ボーア人とイギリス人は対立し、フランス革命戦争中の1795年にイギリスのウィリアム・ベレスフォード将軍がケープタウンを占領した。ナポレオン戦争終結後、19世紀初頭に一旦はオランダに返還したが、1814年のウイーン会議でケープ植民地はオランダからイギリスへ正式に譲渡され、1820年には大量のイギリス人移民が到着し、総督がおかれて本格的なイギリス支配が始まったのである。イギリスの植民地支配によって公用語が英語になり、イギリスの司法制度が持ち込まれイギリスの影響が強まっていった。イギリス人の増加に伴い、ボーア人は次第に差別され、自らをアフリカーナーと呼ぶようになったのである。