油田事故

出典: Jinkawiki

(版間での差分)

2010年8月6日 (金) 18:33の版

2010年4月20日にアメリカ合衆国ルイジアナ州のメキシコ湾沖合80kmで操業していたBP社の石油掘削施設(石油プラットフォーム)「ディープウォーター・ホライズン」が爆発し、海底1,522mへ伸びる深さ5500mの掘削パイプが折れて海底油田から大量の原油がメキシコ湾全体へと流出した事故。原油流出量はBP社発表によると1日15000キロリットルと推定される。その後修正され、7月16日までの総流出量は約70万キロリットルで、1989年に4万キロリットルが流出したアラスカ州のタンカー事故(エクソンバルディーズ号原油流出事故)をはるかに超えた。この流出量は1991年湾岸戦争(150万バレル)に次ぐ規模で、1979年メキシコのイトスク(海底、45万t)、1979年アトランティック・エンプレス号(29万t)を大幅に凌駕している。被害規模は数百億USドルとされる。 油田事故が起きてから、原油の吸着剤として毛髪やペットの毛を集める運動が、NGOの呼びかけではじまった。米下院エネルギー商業委員会のワクスマン委員長は、事故処理に当たるBPの最高経営責任者に書簡を送り、BPが工期短縮やコスト削減のため安全性を犠牲にしたことが最悪の原油流出事故につながった可能性を指摘した。海底の掘削口にはガスや原油の流出を防ぐ遮断弁があるが、それが作動しなかった。

BPはこれまでも、精油所の爆発事故、パイプラインの漏出事故など、さまざまな問題を起こしてきた。この書簡には、事故の5日前にBPの掘削技術者が「悪夢の油井」と呼んでいたことも明らかにされ、事故前にも多くのトラブルに見舞われていたようだ。 BPはこれまでもさまざまな手を打ってきた。だが、「地球に穴が開いた状態」で流出が止まらない。遮断弁にマッド(泥状の化学物質)やゴムなどを注入する通常の方法で噴出を止めようとしたが、原油の圧力に負けて押し戻されて失敗した。現在、破損したパイプを切断して小さな蓋(ふた)をかぶせて一部の原油を回収している。 根本的な解決には、別の油井を根元に向けて掘り、セメントを流し込んで埋める以外ないとみられている。新たな油井を2本掘り進めているが、到達は8月になる見通しだ。そのころには、流出原油は大西洋にまで達している可能性もある。


米国の石油生産の歴史を遡ってみる。テキサス州ボーモントに自噴油井の第1号が掘られたのは1901年のことだ。当時は油田地帯を少し掘れば石油が噴き出した。陸上で採掘し尽くすと海底油田が開発のターゲットになった。 海底油田の歴史は19世紀末にはじまるが、多くは陸から突堤をのばして深さ数m程度の浅い海底から掘るものだった。47年にメキシコ湾のルイジアナ沖にはじめて本格的なプラットフォームが建設されたときには、60mの海底から掘削された。70年代の石油ショック後には水深200mほどの大陸棚まで開発が延びた。現在もっとも深いものは、英蘭ロイヤル・ダッチ・シェルのメキシコ湾ペルディド油田で2438mの海底から試掘されている。 85年当時、メキシコ湾の300mより深い海底から採掘される原油は、わずか2100万バレルで、同湾一帯で生産される原油の6%にすぎなかった。それが09年には、メキシコ湾産原油全体の80%を占める4億5600万バレルにまで急増した。今ではメキシコ湾の深海油田は米国産原油の25%を占める重要な存在だ。だが、この代償がいかに大きなものになったかは、今回の事故が物語っている。

石油流出量が700tを超える油濁事故は、1970年代には年平均25.4回も発生していたが、80年代には9.3回に、90年代は7.9回、2000年代には3.3回まで減少した。とくに、70~80年代にはタンカーの大事故が続発した。 凄惨な油濁の現場がテレビに映し出されるたびに国際世論も高まり、相次ぐタンカーの構造強化や航行規制によって、事故は急減してきた。代わって、石油プラットフォームの事故が増えてきた。2000年以後、毎年、世界で1~2件発生していたが、今年はすでに5件になった。海底油田が次第に岸から遠くなり、掘削の条件がきびしくなってきた結果である。 陸上油田が老朽化して生産量が落ち、石油・天然ガス価格が高騰するにつれて、海底油田の重要性がいよいよ増している。海底油田の可採埋蔵量は全埋蔵量の4分1程度とされているが、すでに全石油生産量の3割以上を占めるまでに拡大した。今後、発見される可能性のある石油は、陸上と海底で半々になるとの見方もある。 深海底は漆黒の闇に世界で、海水温はほぼ0℃。超高圧の力が支配している。むろん、掘削機器や事故対応は遠隔操縦で操作するしかない。そこから汲み上げる原油には、揮発性のガス成分が含まれ、高圧下でつねに「暴噴」の危険が伴う。安全設備には膨大な経費がかかり、掘削する側にはつねにコストを切り詰める圧力がかかる。 米国は過去にも深刻な海底油田事故を経験している。1969年1月29日、カリフォルニア州サンタバーバラ沖約10kmにあったユニオン石油(現ユノカル)の石油プラットフォームで、暴噴事故が発生した。一度は蓋をして噴出を止めるのに成功したが、圧力が強くて蓋が吹き飛び、ガスと原油の噴出がはじまった。 蓋をするまでの11日間の作業中に約3000klの原油が流出して2000km2に渡って広がった。風や潮に乗って、原油は海岸にまで押し寄せてきた。海鳥、アザラシ、イルカが大量に死体となって流れ着いた。海鳥の死体は3686羽が確認された。ボランティアたちが油まみれの野生生物の救出にあたった。海岸地帯では深刻な汚染が広がり、多くの市民が抗議に立ち上がった。 11日目にマッドをパイプに注入して圧力を下げ、セメントで蓋をするのに成功したものの、完全に流出が止まるのに、なお数ヵ月が必要だった。原因は、経費の節約による掘削パイプの強度不足で、連邦政府やカリフォルニア州の基準以下だったことも判明した。そのためにパイプに亀裂が入ったのだった。 この事故はカリフォルニア州を中心に全米で環境保護への関心を盛り上げるきっかけになり、現在の環境保護運動の原点にもなった。流出がはじまった翌日には、サンタバーバラで「Get Oil Out(GOO:石油を追い出せ)」という名の市民団体が旗揚げされ、流出事故をおこした企業のガソリンスタンドに対するボイコットを呼びかけたり、海底油田開発の禁止を要求する10万人の署名を集めたりした。こうしたなかで、政府は海底油田開発の規制強化策を打ち出し、ユニオン石油は漁民や汚染地域の住民らに数百万ドルの補償を支払った。 さらに、市民や環境団体が中心になり、当時盛んになっていたベトナム反戦や反核といった社会運動家も合流する形で、翌70年の4月22日、はじめて「アースデー」が全国的に開催された。30万人が参加する史上最大の環境集会となった。これが、今日までつづく環境保護運動の先駆けになった。カリフォルニア州が地盤で69年に大統領に就任したリチャード・ニクソンが、産業界の反対を押し切って米環境保護局(EPA)を設置したのもこの年だ。 これまでの最悪の石油プラットフォーム事故は、英国から約200km沖の北海で、オクシデンタル石油が操業していた石油プラットフォーム「パイパー・アルファ」の事故である。ここでは1976年に石油生産を開始し、北海の石油、天然ガス生産の約10%を占めるほど大規模なものだった。88年の7月6日に爆発、炎上して167人が死亡した。生存者は62人だけだった。 技術者が安全装置を解除したままにしたことが原因で、高圧の天然ガスが噴出して引火、爆発した。損害額は34億ドルにのぼった。事故後の調査で、ガスラインを閉鎖して消火ポンプを作動させる安全システムの欠如、情報伝達の不備、従業員の非常口がほとんどなかった、などの欠陥が指摘された。このように、過去の大事故も大部分は人為的ミスが原因である。


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