伊能忠敬2
出典: Jinkawiki
2010年12月23日 (木) 10:53の版
1.地図を作るまで
①伊能家の人間として活躍する忠敬
約265年前の1745年に、今の千葉県九十九里町に生まれる。6歳で母と死別。17歳で今の千葉県佐原市にある酒造業を営む伊能家の婿として迎えられる。抜群の商才を発揮して事業を成功させる。天明の大飢饉の前に大阪で米を買いつけていて、窮民に米を施したあと江戸で売って大儲けした、などという話も有名である。忠敬は49歳までの32年間のあいだに家産を約20倍にしたともいわれている。
②勉学に励む忠敬
息子に店を明け渡した忠敬は、若いころから文学趣味のあったようだが、隠居後江戸にでて天文・歴学を志し19歳も年下の高橋至時に入門する。どうして天文・暦学の道に進んだかはいくつか説があるがはっきりとはしていない。しかし、伊能の一門には立派な先輩が多くいたために、「負けないように自分も何かをしなければ」と思って、楽隠居することなく勉学に励んだのではないかと考えられている。至時の元で勉強をしながら自宅には巨費を投じて観測所を設け、熱心に観測をしていた。その甲斐もあって日本ではじめて日中に金星の南中を観測したのは伊能忠敬であったとのことだ。
③蝦夷行きを決めるまで
忠敬は、勉強をしているうちに歴学者の間で地球の大きさがいったいどのくらいなのかという話が出ていることを知った。オランダの書物から地球が丸いということを知ってはいたが、大きさがよく分からなかったのである。そのころ深川から浅草へ毎日のように通っており、それぞれの緯度の差が1分半ということを知っていた忠敬は「両地点間の距離を測って緯度1度の距離を求めよう」と考えた。歩幅が必ず一定(69cmと言われている)になるように訓練して歩測し、図のような測量図を作った。この時算出した緯度一分の値を師匠の至時に見せたところ、「深川と浅草の間を測って地球の大きさを決めるのは乱暴すぎる」「もっと長い距離、例えば蝦夷地辺りまで測れば妥当な値が得られるかもしれない」と言われた。そこで忠敬は蝦夷地行きを即決したのである。
2.地図を作る
①津軽半島到着まで
1800年内弟子3人と下僕2人を連れ富岡八幡宮に参拝した後、千住を午前5時ごろ発ったという。忠敬は千住から津軽半島の最先端まで21日で歩いている。1日平均して40kmも歩いていた計算になる。昼間1日40キロを口もきかずに黙々と歩数を数え、夜には北極星の他1晩に多いときには20個ほどの星を観測し深川の自宅で観測した恒星表と比較し、緯度を求めている。その時に用いられた道具の一部として
「彎窠羅鍼(わんからしん)」 →杖の先につりさげられた羅針盤で方位を測る。
「中象限儀(ちゅうしょうげんぎ)」→南北に結ぶ子午線に沿って配置し、望遠鏡内の十字線の縦線を恒星が通過する時の、四半円の目盛りを読み高度を測る。
などが挙げられる。
②蝦夷に渡るまで
津軽半島の最先端まで急ぎに急いで到着した忠敬だったが、風の向きが悪くなかなか船で渡れなかった。8日間の風待ち後やっと蝦夷地に上陸。下僕1人が病気のために外れ、天気にも恵まれず何より蝦夷地の通行は旅行だけでも大変で歩測もできなかったようだ。そこで天測で観測地点の緯度を固定し、途中地点を概測地で配分して挿入した。一方で経度の観測は努力が報われず成功しなかった。よって伊能図の北海道は東偏している。 伊能隊は蝦夷地を引き上げ、このあと足を踏み入れていない。蝦夷地測量は間宮林蔵が引き継ぎ、蝦夷地の伊能図は林蔵の測量した数値を加えて完成された。
③東日本の地図完成
3年をかけて東日本の測量を終え江戸に戻ると、さっそく本来の目的であった地球の大きさの計算に取り組んだ。その結果を後に至時が入手したオランダの最新天文学書と照らし合わせると、共に約4万キロで数値が一致し、師弟は手に手を取り合って歓喜したという。この時忠敬が弾き出した数値は、現在分かっている地球の外周と千分の一の誤差しかない正確なものだった。
④「大日本沿海輿地全図」の完成
第一次測量(蝦夷地)と第二・三次測量(本州東岸・羽越)を終えた頃には幕府からも認められるようになりほぼ100%補助になっていた。その後第四次測量(東海、北陸)、第五次測量の時には伊能測量隊は幕府測量隊となった。第四次測量後、工夫を凝らして精密かつ華麗に仕上げた東日本の測量結果を幕府に提出したところ、将軍徳川家斉が伊能測量隊を浪人身分でなく幕臣にしたのだ。そして「東日本の地図だけでなく西日本の地図も作れ。」との命令が出され西国に出発した。この頃師匠である高橋至時が亡くなっている。 第六次測量(四国・大和路)、第七・八次測量(九州)。第九・十次測量(伊豆七島・江戸府内)は老体を押しての測量であった。江戸の測量を開始した1815年には伊能忠敬はすでに71歳であった。間宮林蔵が蝦夷地測量のデータを携えて帰府した1817年ごろ忠敬は病床にあった。
翌年忠敬は最終上呈図の完成を目にすることなく病没している。最終上呈図の提出は3年後の1821年であった。高橋景保(至時の息子)や弟子たちは「この地図は伊能忠敬が作ったもの」と知らしめるために彼の死を伏せて地図の完成を目指したといわれている。 江戸城大広間に広げられた日本最初の実測世界地図「大日本沿海輿地全図」は3万6000分の1の大図が214枚、21万6000分の1の中図が8枚、43万2000分の1の小図が3枚という途方のないものであったという。
3.参考文献
・渡辺一郎(1999)『伊能忠敬の歩いた日本』ちくま新書224pp
・今野武雄(1977)『伊能忠敬』新日本出版社186pp