耳塚
出典: Jinkawiki
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- | ・二度の朝鮮出兵 | + | 二度の朝鮮出兵で秀吉は、天下を統一した後、大陸への進出を考え、まず大陸への足掛かりとして、最初に出兵したのが朝鮮であった。 |
- | 秀吉は、天下を統一した後、大陸への進出を考え、まず大陸への足掛かりとして、最初に出兵したのが朝鮮であった。 | + | |
朝鮮出兵は、文禄の役(1592年)と慶長の役(1597年)の2度行われが、朝鮮軍の強い抵抗と明の援軍によって失敗に終わる。 | 朝鮮出兵は、文禄の役(1592年)と慶長の役(1597年)の2度行われが、朝鮮軍の強い抵抗と明の援軍によって失敗に終わる。 | ||
戦国時代では、戦で活躍した武将に恩賞が与えられるが、その恩賞の基準となるのが敵の武将の首級(しるし)だった。 | 戦国時代では、戦で活躍した武将に恩賞が与えられるが、その恩賞の基準となるのが敵の武将の首級(しるし)だった。 | ||
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しかし、首級を日本に持ち帰るのは手間がかかったため、代わりに朝鮮人の耳や鼻を日本に持ち帰り、それを基準に恩賞を与えることにした。 | しかし、首級を日本に持ち帰るのは手間がかかったため、代わりに朝鮮人の耳や鼻を日本に持ち帰り、それを基準に恩賞を与えることにした。 | ||
その耳や鼻を埋めたのが、豊国神社の近くにある耳塚だった。 | その耳や鼻を埋めたのが、豊国神社の近くにある耳塚だった。 | ||
- | ・朝鮮通信使の訪問 | + | |
朝鮮出兵の際、多くの朝鮮人が日本に拉致された。朝鮮側は、戦の後、拉致された朝鮮人の帰還を求めるために度々来日する。その使節は、後に江戸幕府にも派遣されるようになり、朝鮮通信使と呼ばれた。 | 朝鮮出兵の際、多くの朝鮮人が日本に拉致された。朝鮮側は、戦の後、拉致された朝鮮人の帰還を求めるために度々来日する。その使節は、後に江戸幕府にも派遣されるようになり、朝鮮通信使と呼ばれた。 | ||
そして、朝鮮通信使は、朝鮮出兵で犠牲になった当時の人々を供養するために耳塚にも立ち寄り、拝んだとされている。 | そして、朝鮮通信使は、朝鮮出兵で犠牲になった当時の人々を供養するために耳塚にも立ち寄り、拝んだとされている。 | ||
- | ・豊臣家の滅亡につながった秀吉の欲望 | + | 豊臣家の滅亡につながった秀吉の欲望も見え隠れする。 |
- | 耳塚の近くには、秀吉が大仏を造った方広寺大仏殿跡もある。 | + | 耳塚の近くには、秀吉が大仏を造った方広寺大仏殿跡もある。後に関ヶ原の戦いで勝利し江戸幕府を開いた徳川家康は、朝鮮出兵には参加せず兵力を温存。そして、方広寺の大仏修理のために、豊臣家に散在させ財力を失わせる。 |
- | 後に関ヶ原の戦いで勝利し江戸幕府を開いた徳川家康は、朝鮮出兵には参加せず兵力を温存。そして、方広寺の大仏修理のために、豊臣家に散在させ財力を失わせる。 | + | |
その結果、大坂夏の陣で豊臣家は滅亡。 | その結果、大坂夏の陣で豊臣家は滅亡。 | ||
2011年1月23日 (日) 14:58の版
二度の朝鮮出兵で秀吉は、天下を統一した後、大陸への進出を考え、まず大陸への足掛かりとして、最初に出兵したのが朝鮮であった。 朝鮮出兵は、文禄の役(1592年)と慶長の役(1597年)の2度行われが、朝鮮軍の強い抵抗と明の援軍によって失敗に終わる。 戦国時代では、戦で活躍した武将に恩賞が与えられるが、その恩賞の基準となるのが敵の武将の首級(しるし)だった。 朝鮮出兵の際にも、活躍した武将には恩賞が与えられるため、出兵した武将は敵の首級を日本に持ち帰ろうとする。 しかし、首級を日本に持ち帰るのは手間がかかったため、代わりに朝鮮人の耳や鼻を日本に持ち帰り、それを基準に恩賞を与えることにした。 その耳や鼻を埋めたのが、豊国神社の近くにある耳塚だった。
朝鮮出兵の際、多くの朝鮮人が日本に拉致された。朝鮮側は、戦の後、拉致された朝鮮人の帰還を求めるために度々来日する。その使節は、後に江戸幕府にも派遣されるようになり、朝鮮通信使と呼ばれた。 そして、朝鮮通信使は、朝鮮出兵で犠牲になった当時の人々を供養するために耳塚にも立ち寄り、拝んだとされている。 豊臣家の滅亡につながった秀吉の欲望も見え隠れする。 耳塚の近くには、秀吉が大仏を造った方広寺大仏殿跡もある。後に関ヶ原の戦いで勝利し江戸幕府を開いた徳川家康は、朝鮮出兵には参加せず兵力を温存。そして、方広寺の大仏修理のために、豊臣家に散在させ財力を失わせる。 その結果、大坂夏の陣で豊臣家は滅亡。
≪参考文献≫ 「京都観光旅行のあれこれ」 http://kyotohotelsearch.com/blog/2009/10/19/mimiduka/