不平等条約

出典: Jinkawiki

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 不平等条約の改正は、明治政府にとって最大の外交問題であった。初代の岩倉具視をはじめ歴代の外務大臣が交渉を試みたがことごとく失敗、陸奥宗光は実に6人目のチャレンジャーである。  イギリス留学経験のある陸奥は、シベリア鉄道の敷設などロシアの南下政策を警戒するイギリス政府の狙いを正確に見極めていた。しかし、改正に反対する野党の勢力は陸奥の予想をはるかに上回る。このままでは、今回も間違いなく失敗する。「この窮地を挽回するには人の目を驚かす事業が必要だ。しかし、理由もなく戦争を起こすわけにもいかない」と、陸奥は交渉にあたっていたロンドン駐在の青木周蔵公使に私信を送っている。しかし、陸奥の願いは現実となった。日清の開戦が決定的となった1894年(明治27年)7月16日、ヨーロッパで独立し、日本と友好的でありたいと考えるイギリスの後押しもあって、あれほど困難を極めた条約改正は、あっけないほどすんなりと調印された。

不平等条約改正までの過程

【1872(明治5)年】 条約改正の予備交渉を目的に右大臣・岩倉具視を全権大使として使節団を欧米に派遣するが相手にされず。

【1878(明治11)年】 外務卿寺島宗則が日本の関税自主権を認めた日米関税改定約書調印に成功するが、イギリス・ドイツの反対で無効(他国と同様な条約改正が実施条件だったため)となる。

【1882~87(明治15~20)年】 井上馨(かおる)(外務卿・第1次伊藤内閣外相)が欧化政策(鹿鳴館時代)を背景に交渉。政府内部の反対や鹿鳴館への国民の反感もあって失敗、辞任。

【1888~89(明治21~22)年】 大隈重信(黒田内閣外相)が治外法権撤廃を主に交渉。ロンドンタイムズに秘密交渉の内容をスクープされ、政府内にも反対意見が続出。テロで負傷し、交渉中止。

【1891年(明治24)年】 青木周蔵(第一次松方内閣外相)がイギリスと治外法権の撤廃を交渉。イギリスは同意したが大津事件で青木が引責辞任、中止に。

【1894(明治27)年】 陸奥宗光(第2次伊藤内閣外相)、日英通商航海条約調印。治外法権撤廃と一部関税の自主権を獲得。その後、各国と同様の条約を締結する。

参考文献 週刊 ビジュアル日本の歴史 No19 近代国家への道9 日清戦争 おもしろ教科書ゼミナール4 日本の歴史が10倍おもしろくなる


投稿者 mk


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