オーストリアの学校改革

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2011年1月31日 (月) 12:29の版

オーストリアの学校改革

オットーグレッケル オットー・グレッケルは、1874年にウィーン郊外に、貧しい教師の子として生まれた。18歳のときに教員資格を得たグレッケルは、同年、ウイーンで助教授になった。そこで第4学年を教えたことは、学校と子供たちの現状について考える強いきっかけになったという。大都市周辺の労働者階級のこどもたちの貧しさ、社会福祉の未整備、また、地位と賃金の低さが招く、教師の無気力感などにより低迷する学校教育の状況を改善しなければならないと考えた。 1919ねんに教育次官補になったグレッケルは、学校改革局で総指揮を執った。グレッケルは望まれればどこへでも赴き、親、教師、党員の前で学校改革にについて話をして、理解を求めることに努力を惜しまなかったという。さらに、国内の学校を視察したり、外国の教授法を実際に見たりすることによって、つねにオーストリアの教育における現状を把握し、向上に努めた。彼の努力によって、ウイーンは、『教育のメッカ』と呼ばれるようになったという。彼の努力はオーストリア中にたたえられ、このグレッケルを記念して、オーストリアの教育界に貢献した実践家や研究者たちを対象としたグレッケル賞というものがあるほか、オーストリア各地に彼の名前を冠した学校や通りがあるという。

労作学校 グレッケルは、改革以前の学校を、カトリックの教義を繰り返し暗記するだけの”ドリル学校”あるいはまた、官僚や学者を育成するための知識主義に偏重した学習学校であると批判した。それにたいしてこれからの学校は、子供が、教師の指導のもとに新しいことを発見する、探求する、活動して獲得する『労作学校』であるべきだとした。グレッケルによれば、労作学校とは”若者が授業の中で、すべての感覚を使って問題を解決すること。できる限り自分で活動して、認識を得ることに取り組む”ものである。グレッケルはこの労作学校を全面的に推し進め、改革を具体化するため、郷土にこそ教材が眠っていると考え、環境や経験によって教える内容を変えるべきとする郷土化の原則、時間割を廃止し、諸教科の内容をわけずに一つの教科(オーストリアでは主に生活科)を教えていこうとする合科教授の原則、そして子供の精神的、身体的活動によって、能動的教育にするべきという労作の原則が誕生した。こういったグレッケルの精力的改革によって、オーストリアの単一的教育は変化していった。


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