尚巴志

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尚巴志

尚巴志は三山統一という大きな歴史的役割を演じた。1439年4月20日、68歳でこの世を去った。その間、尚巴志は三山統一の他に、海外貿易の拡大と首都の建設に努め、また国中の里数を改定して、その広狭、険易、遠近を記し、駅郵を創建して命令の伝達をはかった。もちろん、支配階級の支配のための手段の整備が主流ではあった。が、なかには、民衆のくらしのためにプラスになるようなものもなかったわけではなかった。


尚巴志の三山統一

14世紀頃、日本で南北朝が対立して互いにしのぎをけずっていたころ、沖縄では山北・中山・山南の三山が分立して争っていた。1406年、尚巴志は三山の雄で浦添に拠る中山王武寧を倒して、まず中山の覇権を握る。ついで1416年、北に戦野を広げて今帰仁城に迫り、北山王ハンアンチを滅ぼす。そして1429年、南の平野を疾駆して大里城を制圧し、南山王タルミを屈伏させる。分立する沖縄にはじめて統一的な政治体制をもたらした。ここで初めて全島が統一され、琉球王国が誕生する。琉球史では、後にこの王国が王位継続争いや護佐丸、阿麻和利の乱などから弱体化し、内間金丸等によるクーデターが起こる。こうして尚巴志王統が滅びたことから、尚巴志系を「第一尚氏王統」と呼び、内間金丸系を「第二尚氏王統」と区別している。


第一尚氏王統

首里城を拠点に王国の基礎固めを図った。農民を大事に扱い、三山時代から開かれていた明国との貿易にも力をつくしたというが、41年の短期で終わっている。しかしこの統一王国の形成は、13世紀から15世紀にかけて激しく揺れ動いた東アジア、東南アジアとの歴史的な関わりを独立国家の体制で切り結ぶ大きな力になるのであった。そして第一尚氏は、中山王察度によって開かれた中国交易や、東南アジアとの海外貿易等の事業を引き継ぎ、それをもって琉球王国の重要な外交政策として位置づけ、強力に展開していくようになる。

出典

沖縄の歴史と文化 外間守著 中公新書

琉球王朝史 新里金福 朝文社

沖縄入門 比嘉康文 岩垂弘 同時代社

中学総合的研究社会 旺文社


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