安史の乱
出典: Jinkawiki
(版間での差分)
2011年2月2日 (水) 15:28の版
唐代玄宗の末年より起こった安禄山・史思明らによって指導された乱。この乱の直接の原因は、辺境の節度使安禄山と中央の宰相楊国忠の権勢争いであった。この争いの原因は、均田制の崩壊によって引き起こされた官僚制の動揺にあった。開元の治とたたえられた玄宗の治世も晩年は天子の倦怠、宰相李林甫や、楊貴妃の一族楊国忠らの横暴により表面的平和にかかわらず、政治・経済・社会の不安が内在した。異民族の出で東北境三鎮の節度使をかねた安禄山が楊国忠との不和から755年反乱をおこすと、たちまち大乱になり、玄宗を成都に亡命させて長安を占領、皇位につき、大燕と号した。彼はその子慶緒に殺され、慶緒は部将思明に殺され、皇帝を称した史思明がまたその子史朝義に殺された。763年李光弼・郭子儀らの諸将が、ウイグルの援助で平定した。8年かかったこの内乱は、唐代史のみならず、中国社会の発展史上の分岐点としても、重大な意味を持っている。