紀貫之
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- | 『山川日本史小辞典』 山川出版社 | + | ・『山川日本史小辞典』 山川出版社 |
2011年2月3日 (木) 16:57の版
平安時代初期の歌人。三十六歌仙のひとり。「古今集」の撰者。生年はあきらかではないが、貞観(859~877年)ごろの生まれ。紀氏という名門に生まれる。望之の子。905年(延喜5年)醍醐天皇の勅により、紀友則らと最初の勅撰和歌集「古今集」を選び、みずから仮名序をつけて奏上したことは有名である。彼の歌は当代をもっともよく代表するもので、古今集の中には最多の102首のせられている。漢詩に比肩しうる詩的な言語表現をつくり出すことを目指した。930年土佐守となる。934年任満ちて翌年帰郷。この土佐守の任期を終えて上京するまでの日々の見聞を記した日記形式の紀行文が「土佐日記」で、当時男性としてはじめてかな文字を用いた。また、土佐日記は仮名書き日記の最初の作品であり、日記文学のみならず仮名文学全般の発展に多大の影響を与えた。のち玄蕃頭などの官職につき、最終の官位は、従四位下木工権頭に終わった。65才くらいで没したという。家集に「貫之集」。その他の作品に「大井川行幸和歌」の仮名序、「新撰和歌」の撰定と真名序などがある。後世、古今集が尊重されるようになったため、その代表歌人である貫之は万葉の柿本人麻呂とともに「歌聖」として尊敬されるようになった。
出典
・『学生世界人名事典』 教学研究社 ・『日本史小辞典』 角川書店 竹内理三編 ・『山川日本史小辞典』 山川出版社