琉球処分

出典: Jinkawiki

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経緯

 1867(慶応3)年10月、15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行い、260年余り続いた徳川幕府は崩壊した。12月、明治政府は王政復古の大号令を発した。 明治政府は1869(明治2)年6月版籍奉還を、続いて71(同4)年7月廃藩置県を断行し、中央集権的な国家体制を形成した。廃藩置県と同月、対外的には日清修好条規を締結し、日中国交が成立した。それは、幕藩体制下の琉球の位置づけが問いなおされることを意味した。だが、廃藩置県で薩摩藩は鹿児島県となったが、琉球は引き続き同県が支配した。 1871年11月、台湾に漂着した琉球の宮古島民が、現地民に殺害された台湾事件を契機に、明治政府部内で琉球の「日中両属」の状態を解消し日本に帰属させることが議論されるようになった。 明治政府は琉球に維新慶賀使の派遣を要求し、1872(明治5)年9月、琉球の維新慶賀使が東京に到着した。9月14日、明治政府は琉球国を廃止して琉球藩を設置し、藩王とさせて華族に列した尚泰は飯田橋に藩邸を賜った。また、摂政・三司官の任命権も明治政府が掌握した。1850年代に琉球が欧米諸国と締結した琉米、琉仏、琉蘭修好条規は外務省が引き継ぎ、琉球在番奉行所は外務省出張所となり、最後の琉球在番奉行福崎季連は外務省九等出仕に任用された。琉球藩は外務省所管となった。年頭使は1873(明治6)年から鹿児島にかわって東京に派遣された(1876<明治9>年まで)。 1874(明治7)年5月、明治政府は台湾出兵を行い、それを清に「保民の義挙」として認めさせ賠償金50万両を獲得した。翌1875(明治8)年、明治政府は琉球藩を内務省に移管し、内務大丞松田道之を琉球に派遣して、(1)清への進貢使・皇帝即位の慶賀使の派遣停止、ならびに藩王代替わりの節清より冊封を受けるのを禁止(冊封・朝貢関係の停止)、(2)日本年号の使用、日本の年中行事の遵行、刑法施行のため取調べ担当の者二、三人の上京、藩制改革の施行、学事修業・事情通知のための者十人ほどの上京(日本の制度導入)、を命じた。 こうした明治政府の命令を受けて、1876年、琉球は清への進貢使の派遣を停止し、また、琉球の歴史(『中山世譜』『球陽』)の書き継ぎを中止した。 明治政府は1879(明治12)年、松田道之を熊本鎮台沖縄分遣隊300余人・警官160余人とともに琉球に派遣し、3月27日、首里城において琉球藩を廃し沖縄県をおくことを申し渡した。木梨精一郎を県令心得に任命し、内務省出張所に仮県庁を開設した。4月、旧肥前国鹿島藩主鍋島直彬が初代県令に任命され、5月18日、着任した。 こうして450年余続いた琉球王国は崩壊した。


参考

『沖縄を知る事典』 大高利夫 日外アソシエーツ株式会社 『琉球と日本・中国』(日本史リブレット) 紙屋敦之 山川出版社 


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