高度経済成長2
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概要
- 1956年の『経済白書』には「もはや戦後ではない」という刺激的な言葉が掲載されていたそうだ。この『経済白書』が出される前年から、大型景気が始まっていた。この昭和30年からおよそ20年間、「神武景気」「岩戸景気」「オリンピック景気」「いざなぎ景気」「列島改造ブーム」と言われる大型景気を経験して、年の平均成長率が10パーセントを越える奇跡的な成長をみせた。これがいわゆる、高度経済成長期である。
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日本的経営
- 日本人は独創的な発明は得意ではないが、海外で発明された製品の質を高めたり、使い勝手を良くしたりすることに秀でていた。いずれにせよ、企業で働く日本人の血の出るような努力の賜物だったのである。何故そこまでして日本人は、会社のために尽くすのだろう。他国では、一般労働者は決められたノルマ以上のことはしないが普通である。だが、当時の日本では、末端の労働者までが家族を犠牲にし、余暇を削り、健康を害してまで会社のために働いた。これはやはり、日本企業が終身雇用制度と年功序列型賃金の採用、いわゆる日本的経営を展開していたことが大きい。この結果、自分は一生会社に面倒見てもらえ、老後は豊かな生活が待っているという安心感から企業への強い帰属意識が形成していった。
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影響
- 産業構造の高度化が進んだことから、企業(第2、3次産業)が高給をアピールして農村(第1次産業)から人を奪ったことから、企業と働き手(父)が癒着し、家庭は母親と子どもだけになり、所得の少なさからも子どもの教育に関しては学校を信頼するほかなかったことがわかる。また元々の本は農家が多かったのに対して、「三ちゃん農業」(じいちゃん、ばあちゃん、かあちゃん)と言われるような形で、男は出稼ぎに出る場合や、都会へと人口が流出する場合が増えていった。これから核家族化を進行させ、都会近郊では地域機能が働くなる要因の一つとして考えられる。
- しかしこの経済成長をとめたきっかけとなったのが、1973年に起こった第一次オイルショックである。これにより、長い高度経済成長期も終わり、多くの企業が今までの終身雇用制度ではやっていけなくなり、成績主義(実力主義)へと少しずつ変わっていった。このことが、高学歴化に拍車をかけることになった。
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参考図書
- 河合敦著「知っているようで知らない昭和史」2007 PHP研究所