十組問屋

出典: Jinkawiki

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最新版

17世紀末江戸の荷受問屋が商品別に組織した組合。

概要

江戸時代に、江戸の消費地と大坂などの上方を結んだ廻船に菱垣廻船というものがある。当時の菱垣廻船は,難船が多かった。難船そのものは天災だが,問題は,むしろ難船に付き物の人災の方であった。船頭や水主の中には欲の皮が突っ張った者が大勢いて,難船の度に,港の関係者と共謀して,荷物を横領した。甚だしい場合は,無事に運航しているのに難船を装い,荷物を掠めとった。分けても,1686年(貞享3年),小松屋仲右衛門の船が相州沖で暴風により破船したとされる事件は,船頭が斧で船底をたたき割り,積み荷のほとんどを盗み出すという悪質なものであった。これでは,荷物の受け手は丸損である。そこで十組の問屋が結集し,組毎に行司を定めて,船問屋を通さずに,直接菱垣廻船を支配することとなった。1694年(元禄7年)のことである。

十組問屋が難船をめぐるトラブルに神経質になっていたのは,問屋のあり方が,元禄期までに,ほぼ変わっていたからだ。以前の,ただ上方からの荷を待つだけの荷受問屋ならば,揖害の負担は,送り手の責任となるが,前節で見たように,この時期の問屋は,才覚,思い入れで,どんどん品物を発注する,仕入れ問屋になっている。この場合,船が大坂を離れた瞬間,荷物の所有権は買い手に移るというのが,当時の慣習だった。当然,損害があった時も,買い手の負担となる。彼らが対策を急いだのは,当然のことであった。そして,江戸の十組問屋に対して大坂から品物を送るのが,二十四組問屋であった。

十組問屋は,仲間全体を束ねる「大行司」を定め,一組が4カ月ずつ,船手全ての支配を順番に勤めた。毎年正月と9月に寄合を開いて,当番行司を決めた。海損勘定の振分散の時には,その年の行司が支配した。三極印元という係は,船具や船足(吃水線)を調べて焼印を押した。

問屋の種類

塗物店組(塗物類),内店組(絹布・太物・繰綿・小間物・雛人形),通町組(小間物・太物・荒物・塗物・打物),薬種店組(薬種類),釘店組(釘・鉄・鍋物類),綿店組(綿),表店組(畳表・青筵,河岸組(水油・繰綿),紙店組(紙・蝋燭),酒店組(酒類)。

参考文献:http://www.abura-ya.com/naruhodo/rekishi/rekish30.html

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