チェチェン

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== 概要 == == 概要 ==
 +チェチェン共和国(チェチェンきょうわこく)は、北カフカース地方の北東部に位置するロシア連邦北カフカース連邦管区に属する共和国。設立は1991年で首都はグロズヌイ。北カフカースの先住民族のひとつのチェチェン人が住民の多数を占める。
 +チェチェン共和国はロシアの憲法上ではロシア連邦を構成する連邦構成主体のひとつである。しかしソビエト連邦解体後、ロシア連邦政府及びロシア連邦への残留を主張するチェチェン人勢力と、チェチェン・イチケリア共和国やカフカース首長国を自称するチェチェンの独立を求める武装勢力との間で対立が続き、2度のチェチェン紛争と独立派のテロリズムがたびたび発生している。
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 +== 歴史 ==
 +=== チェチェン人の起源 ===
 +チェチェン人は、明らかにカフカス最古の民族のひとつである。これは、多数の考古学的研究によって証明されているところである。
 +カフカス山地の地峡地帯に存在してきた諸文明は、その起源を古代エジプトにまで遡ることができる。カフカス山脈地帯は民族大移動のときに
 +ここを通過していった多数の部族の避難所となった。この時代に関して、チェチェン語で書かれた史料はのこっていない。そういうものがあれば、ちょうどロシア人の場合の
 +ネストルの年代記のように、チェチェン人の年代史が残るようになっただろう。チェチェン人あるいは彼らが属するより広範囲の民族であるヴァイナフの足跡を再び見出すためには、
 +民間伝承、あるいは他国や他民族の歴史的資料によらなければならない。民間に伝わるある伝説によれば、チェチェン人の先祖はシリア(シャーム)から出たという。彼らは古代に、
 +ナヒチ・ヴァン(現在のアゼルバイジャンのナヒチェヴァン自治共和国)に住み着いた。そしてそこから、アブハシアを通って、カバルダに入り込んだ。ほかに、チェチェン人を
 +中東起源(現在のイラク)とする伝承もある。
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 +=== 前ロシア時代(1816年まで) ===
 +最初のチェチェンの反抗は1785年に起こった。歴史上、長老マンスールの名で知られるアルドゥイ村出身の農民ウシュルマがその指導者だた。反乱の初期、マンスールは16歳から25歳のあいだだったに違いないとされている。彼は、北カフスカ史上最初の宗教戦争を呼び掛けた。
 +ロシアのような強大な敵を向こうにまわしては、たとえチェチェン人のように強力で闘争心が強くても、一山岳民族も糾合すべく、彼が選んだのが、宗教的基盤であった。というのも、イスラム教のほかに共通する要素はなかったからである。反乱は、ダゲスタン北部、カバルダ、
 +そしてチェルケスへと急速に広まっていった。1785年7月12日、最初の戦いが、ロシア軍とマンスール率いる反乱軍との間に行われた。兵士、士官をあわせ3000名を超すロシアの分遺隊が、この戦闘でほぼ750名を失った。この戦果に勢いを得たマンスールは、1785年の間に、キズリャル(ダゲスタン北部)
 +とグリゴロポリスにあった洋館に要塞に繰り返し攻撃をしかけた。これらはいずれも失敗に終わっている。反抗の第2段階は、ロシア女帝エカチェリナ2世がトルコに対して宣誓を布告した1789年9月9日に始まった。当時、北カフスカ山地西部のいチェルケスに居を構えていたシャイフ・マンスールの動きを阻むため、
 +ロシア軍は8000人の兵士と35門の大砲を向けてきた。一連の戦闘の後、シャイフはやむなく退却した。戦場に一番近い村と、彼の住んでいた家が、ツァーリの軍隊に焼き払われてしまったからである。<br>
 +1790年夏、シャイフ・マンスールはチェチェンに戻り、キズリャルに新たな攻勢をかけるべく、動員を呼び掛けた。だが、チェチェン人たちは動こうとはしなかった。1790年の秋、マンスールは黒海沿岸トルコ領アナパの要塞に難を逃れることを余儀なくされた。シャイフは、ロシアの支配を覆そうと
 +山岳諸民族に訴え続けた。1791年6月、彼は対トルコ戦争でアナパを占領したロシアの将軍グドヴィチによってとらえられ、終身刑に処せられて、1794年4月、シュリッセルブルグ要塞で獄死した。

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目次

概要

チェチェン共和国(チェチェンきょうわこく)は、北カフカース地方の北東部に位置するロシア連邦北カフカース連邦管区に属する共和国。設立は1991年で首都はグロズヌイ。北カフカースの先住民族のひとつのチェチェン人が住民の多数を占める。 チェチェン共和国はロシアの憲法上ではロシア連邦を構成する連邦構成主体のひとつである。しかしソビエト連邦解体後、ロシア連邦政府及びロシア連邦への残留を主張するチェチェン人勢力と、チェチェン・イチケリア共和国やカフカース首長国を自称するチェチェンの独立を求める武装勢力との間で対立が続き、2度のチェチェン紛争と独立派のテロリズムがたびたび発生している。

歴史

チェチェン人の起源

チェチェン人は、明らかにカフカス最古の民族のひとつである。これは、多数の考古学的研究によって証明されているところである。 カフカス山地の地峡地帯に存在してきた諸文明は、その起源を古代エジプトにまで遡ることができる。カフカス山脈地帯は民族大移動のときに ここを通過していった多数の部族の避難所となった。この時代に関して、チェチェン語で書かれた史料はのこっていない。そういうものがあれば、ちょうどロシア人の場合の ネストルの年代記のように、チェチェン人の年代史が残るようになっただろう。チェチェン人あるいは彼らが属するより広範囲の民族であるヴァイナフの足跡を再び見出すためには、 民間伝承、あるいは他国や他民族の歴史的資料によらなければならない。民間に伝わるある伝説によれば、チェチェン人の先祖はシリア(シャーム)から出たという。彼らは古代に、 ナヒチ・ヴァン(現在のアゼルバイジャンのナヒチェヴァン自治共和国)に住み着いた。そしてそこから、アブハシアを通って、カバルダに入り込んだ。ほかに、チェチェン人を 中東起源(現在のイラク)とする伝承もある。

前ロシア時代(1816年まで)

最初のチェチェンの反抗は1785年に起こった。歴史上、長老マンスールの名で知られるアルドゥイ村出身の農民ウシュルマがその指導者だた。反乱の初期、マンスールは16歳から25歳のあいだだったに違いないとされている。彼は、北カフスカ史上最初の宗教戦争を呼び掛けた。 ロシアのような強大な敵を向こうにまわしては、たとえチェチェン人のように強力で闘争心が強くても、一山岳民族も糾合すべく、彼が選んだのが、宗教的基盤であった。というのも、イスラム教のほかに共通する要素はなかったからである。反乱は、ダゲスタン北部、カバルダ、 そしてチェルケスへと急速に広まっていった。1785年7月12日、最初の戦いが、ロシア軍とマンスール率いる反乱軍との間に行われた。兵士、士官をあわせ3000名を超すロシアの分遺隊が、この戦闘でほぼ750名を失った。この戦果に勢いを得たマンスールは、1785年の間に、キズリャル(ダゲスタン北部) とグリゴロポリスにあった洋館に要塞に繰り返し攻撃をしかけた。これらはいずれも失敗に終わっている。反抗の第2段階は、ロシア女帝エカチェリナ2世がトルコに対して宣誓を布告した1789年9月9日に始まった。当時、北カフスカ山地西部のいチェルケスに居を構えていたシャイフ・マンスールの動きを阻むため、 ロシア軍は8000人の兵士と35門の大砲を向けてきた。一連の戦闘の後、シャイフはやむなく退却した。戦場に一番近い村と、彼の住んでいた家が、ツァーリの軍隊に焼き払われてしまったからである。
1790年夏、シャイフ・マンスールはチェチェンに戻り、キズリャルに新たな攻勢をかけるべく、動員を呼び掛けた。だが、チェチェン人たちは動こうとはしなかった。1790年の秋、マンスールは黒海沿岸トルコ領アナパの要塞に難を逃れることを余儀なくされた。シャイフは、ロシアの支配を覆そうと 山岳諸民族に訴え続けた。1791年6月、彼は対トルコ戦争でアナパを占領したロシアの将軍グドヴィチによってとらえられ、終身刑に処せられて、1794年4月、シュリッセルブルグ要塞で獄死した。


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