ハンナ・アレント
出典: Jinkawiki
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ハンナ・アレント
1906年ドイツ生まれ。 1951年にアメリカ合衆国の公民権を獲得した ユダヤ系の知識人。統合教育(全体主義、黒人白人混合の教育)を批判し、公共性論を主張した。
1.リトルロック事件でのハンナの主張(全体主義批判)
―リトルロック事件 1957年にアーカンソー州のリトルロックで起こった公立学校での人種統合に反対する暴力事件。54年の「ブラウン対教育委員会事件」の判決により、それまでの教育の考え方が「分離すれども平等に」から「分離された教育施設は本質的に不平等である」という流れを受け、リトルロック市の教育委員会が分離教育の撤廃を立案したところ、57年、中央高校に9人の黒人生徒が入学することになった。それを阻止しようと当時の知事が州兵を動員して実力阻止を断行した事件。
―ハンナの主張 これに対してハンナは、「人種別学」と「人種共学」の法的強制を否定している。ハンナによれば、ブラウン判決は「人種別学」を否定し「人種共学」を肯定するという方向性を帯びているという。公民権運動の中で、好ましい形すべてが「人種共学」ではないし、同化を拒否するマイノリティもあるということだ。すなわち、どちらの立場も法的な判決はしかねるのではないかという主張である。ただ、これには彼女自身のユダヤ人としてのマイノリティ経験を黒人問題に投影させたものであるという指摘もある。
2.ハンナの公共性概念
社会問題の公共的な解決という形で、社会の理論が全体を制圧しつつあった状況に釘を刺したのである。ハンナは社会問題を軽視していたのではなく、いかにして、異質な他者が関わり合う公共性の次元(平等)と、同質性が支配する社会的な次元(区分け)の自律的な価値を擁護するかというテーマがあった。
3.ハンナの主張
そもそも子供の教育の本質とは、①「妊娠と出産によって子どもたちを呼び出して生命を与える」②「子どもたちを世界の中に導き入れる」という側面を持っている。②において、子どもを導き入れる機関として、ハンナは学校であると考えている。すなわち学校とは「家族から世界への移動を少しでも可能にするために、われわれが家庭の私的領域と世界の間に挿入した制度である」というのだ。さらに、「複数性という、人間の条件が保たれている共通世界は、異文化性を絶え間なく取り込んでいかなければ存続不可能である。したがって、教育とは新しいもの=異文化としての子どもを、その異文化性を保持しつつ、古い世界=大人社会へ持ち込んで世界を破滅から救うためにするもの。それを実現するには、子どもは未完成の大人ではなく「世界への新参者」=他者としてとらえようという考えがあった。」(P.193L.7~P.194L.10)
参考:小玉重夫1999年『教育改革と公共性』