塙保己一

出典: Jinkawiki

(版間での差分)

2012年2月4日 (土) 16:31の版

塙保己一は、江戸時代に活躍した全盲の国学者である。1746年、延享三年生まれで7歳の時に病気で失明した。盲目の身であるのにもかかわらず、学問の世界に身を投じ、大文献集「群書類従」の刊行、「和学講談所」の創立などに尽力した。1821年、文政四年には「総検校」に昇進、同年九月に病で死去している。


経歴

幼少時代  保己一(幼少期は寅之助)は1746年、延享三年に武蔵国児玉郡保木野村の養蚕農家の跡取りとして生まれた。幼いころからあまり体が丈夫ではなく、両親は彼を遠くの医者に診せに行ったり、改名をさせたり(寅年生まれで寅之助という名前をつけたが、当時寅年生まれの子供は不幸になるという迷信があった。両親は辰之助と改名させた。)と彼のために尽力したが、保己一は7歳で失明することとなった。 毎日縁側でぼーっと過ごす彼を不憫に思った両親は、寺で開かれていた教室に彼を預ける。そこで彼は、学問や物語の素晴らしさに気付き、また、話された事を丸暗記するという才能を見出す。 彼は、ある日やってきた行商人に「江戸には太平記を名調子で聞かせてそれを生業にしている太平記読み」という職業があることを教わり、江戸に出ることを決意する。


江戸に出てから 江戸に出てから雨富兼好の一座に入門し、音楽・あんま・金融業に関する修行を始めたが、どれも上達はしなかった。理想と現実の違いを思い知った保己一は自殺を図るが、未遂に終わる。それを知った雨富検校は、保己一の本心を聞き出し、保己一に学問を修める許可を与える。  そこから保己一は「般若心経」を毎日百巻読む、六国史を読破するなど学問の道に突き進んでいった。1775年、安永四年、その姿勢が認められて師である雨富検校の本姓である「塙」を名乗ることを許される。このころから「塙 保己一」と名乗り始める。


さまざまな功績 1779年、安永八年、大文献集「群書類従」の刊行を決意する。この「群書類従」は二十五の部立てによって文献を集め、整理したもので、学問を志す者がいつでもどこでも必要な文献や書物を利用できることを目標としたものである。当時は貴重な書物の多くが、各地に散らばり、名家の書庫の奥に埋もれていて、どの書物が今どこにあるのか全く分からない状態であった。これを保己一は憂い、貴重な文献や書物を全国から探し出し、研究し、校正し、版木に起こして永久に保存しようと考えたのである。そのためには研究機関であり、後継者を育成するための教育機関でもある学問所が必要だと考えた保己一は、自らの手で「和学講談所」を創立する。当時は儒学や神道、和歌を研究する機関は見られたが、この「和学講談所」では日本の歴史や政治、法律制度を研究する珍しいものであった。その研究成果の一つが1819年、文政二年に刊行された「群書類従」という670冊にも及ぶ、大文献集であった。 このような成果が認められ、1783年、天明三年には盲人の最高位である「検校」に、1821年、文政四年、「検校」の中の最高位「総検校」に昇進する。しかし同年九月に病によって76歳の生涯をとじた。


サイドストーリー ・保己一は生前『続群書類従』1885冊を編纂していたが、生前は版が出来上がらず、世に出ることはなかった。しかし、保己一の死後100年後、続群書類従完成会という会が出来て、出版事業を起こしている。 ・今日作文等で使われている原稿用紙(二十字×二十行)は、保己一が刊行した「群書類従」の形式に習ったとされている。 ・三重苦の偉人として知られているヘレン・ケラーは、この塙保己一を目標としていた。


参考文献 堺正一 2009 素顔の塙保己一 盲目の学者を支えた女性たち 埼玉新聞社


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