佐久間象山
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2012年2月10日 (金) 13:03の版
信州松代藩士。文化8年(1811)~元治元年(1864)
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概要
松代藩の下士佐久間国善(くによし)の長男として、松代町浦町に生まれる。幼名啓之助。少年時代から秀才の誉れ高く、天保4年江戸に出て佐藤一斎に学び、渡辺崋山・藤田東湖などと親交を深めた。朱子学者であった象山は、ひそかに陽明学を信奉していた一斎に不満をもち、一斎からは経書の講義をいっさい受けず、もっぱら文章詩賦(しふ)を学んだと伝えられる。同10年江戸神田阿玉池に私塾を開く。同13年藩主真田幸貫が老中海防掛となると、顧問として海外の事情を研究した。弘化元年黒川良安と蘭学・漢学の交換教授を行い、オランダの百科辞典などによって洋学の知識を身につけた。その後嘉永3年深川の藩邸で砲学の教授を始め、勝海舟・橋本左内ら多くの人材を集めた。同6年門人吉田松陰のアメリカ密航未遂事件に連座し、松代に蟄居(ちっきょ)を命じられた。文久2年蟄居を許された。この間、洋書を読んで西洋研究に没頭し、洋学と儒学の兼修を積極的に主張するとともに、固定的な攘夷(じょうい)論から現実的な和親開国論に転じ、そのための国内政治体制として公武合体を唱えるようになった。