エスペランティスト
出典: Jinkawiki
2012年8月9日 (木) 13:20の版
エスペランティストとは
エスペランティストは,エスペラント使用者,また,エスペラント主義者の意味で使われる。 エスペラントの定義は,ブローニュ宣言に示されている。 ブローニュ宣言の契機は1905年の第一回世界エスペラント大会である。この年、フランスのブローニュ・シュル・メールにエスペランティストたちが集まり、エスペラントが,それまで主に使われていたように 雑誌や書籍、手紙など文字言語としてだけでなく、会話や演説、演劇など音声言語としても十全に使えることを証明した。 この大会で、ザメンホフの起草の下に「ブローニュ宣言」が採択され、これはその後のエスペラントの言語面と運動面とを規定することになる。 ブローニュ宣言第5条では,エスペランティストを「エスペランティストとは,使用者がそれを使う目的に全く関係なく,エスペラントを知り,使用する者全てを指す。全てのエスペランティストにとって,なんらかの活動しているエスペランティストの会に所属することは推奨すべきであるが,強制であってはならない。」と定義している。
日本のエスペランティスト
丘浅次郎(1868-1944)
動物学者であり,静岡県生まれ。東京文理科大学講師で,ヒル・ホヤ・コケムシの研究、日本における進化論の普及に貢献した人物である。著書には「進化論講和」「雌雄の起源及び進化」などがある。
丘は,日本で最初のエスペランティストのひとりとされている。丘は当初,ヨハン・シュライヤーによって創られた人工言語であるボラピュクを学んだが,消滅したためエスペラントを学習するようになった。「ジレンゴ」という国際語を自身で考案したが,公表はされていない。エスペラントのほうが優れていると悟り,エスペラントに関心を寄せるようになった。息子である英通,直通,正通らもエスペランティストである。
二葉亭四迷(1864-1944)
日本の小説家,翻訳家であり,本名は長谷川 辰之助(はせがわ たつのすけ)。江戸の生まれ。東京外国語学校(現東京外国語大学)を中退している。1887(明治20)年に「浮雲」を書き,言文一致体の文章と優れた心理描写で新生面を開いた。ロシア文学の翻訳にも秀でていて,「あひゞき」などの名訳がある。ほかに「其面影」や「平凡」などがある。 二葉亭四迷により,1906年(明治39)年7月,東京の彩雲閣から日本で最初のエスペラント教科書「世界語」が刊行された。この本は大きな反響をよび,同年の9月には,やはり彩雲閣から「世界語読本」(エスペラントの創始者であるザメンホフが発表した『国際語エスペラント読本』の最初の日本版)が続けて出版されている。また,「世界語」は,同年に設立された日本人会員700名を擁する日本エスペラント協会において,初代会長となった黒板勝美と英文学者の安孫子貞次郎らの働きのよって,日本語で書かれた最初のエスペラントの教科書となった。それにより,「世界語」は版を重ね,6版まで出た。二葉亭四迷は求められてエスペラントに関する文章を書いたり,インタビューに応じたりして,エスペラントの普及に貢献した。
田鎖綱紀(1854-1938)
岩手県出身。日本語速記術の創始者。南部藩士の息子。欧米の速記術,特にグラハム式を研究し,1882年(明治15)年創案宣言発表した。著書には「日本傍聴筆記法」や「新式速記術」などがある。 田鎖綱紀は英文の書物でエスペラントの存在を知り,独習を始めた。二葉亭四迷の出した「世界語」が評判になった1960年頃には独習を開始していたと考えられる。田鎖綱紀は日本語速記述を考案した人物であり,これの完成への道をひたすら歩み続けていただけあって,ことばへの関心がとりわけ強かった。そのため,1889(明治22)年にはボラピュクを学んでいて,エスペラントに対する取り組みも早かった。田鎖は日本エスペラント協会に入会した形跡はなく,自らエスペラントの講習会を開くこともなかった。日本語速記術を普及させるために全国各地を歩きまわっていたため,その行く先々で個別にエスペラントを宣伝していたと推測される。
参考・引用文献 佐藤竜一著 『世界の作家 宮沢賢治 エスペラントとイーハトーブ』 彩流社 2004年 広辞苑 ザメンホフhttp://www.sal.tohoku.ac.jp/~gothit/geng0102.html
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