サダム・フセイン2
出典: Jinkawiki
2012年8月9日 (木) 18:37の版
生い立ち
イラク北部のティクリート近郊のアル=アウジャ村で農家の子として生まれ、「直進する者」を意味するサッダームの名を受けた。10歳の時から、母方の叔父ハイラッラー・タルファーフのもとで暮らした。8歳の時に、ハイラッラーの娘であるサージダ・ハイラッラーと婚約した。サダムの敵に屈しない性格とイラク・ナショナリズム思想(ワタニーヤ)は、叔父ハイラッラーの影響から生まれたといわれている。小学生の時から銃を持ち歩き、素行の悪さから学校を退学させようとした校長を脅迫して、退学処分を取消にさせた。 1995年、中央政府の教育長長官になっていたハイラッラーの後を追ってバクダッドに移り住む。1957年にバアス党に入党する。 1959年にアブドゥルカリーム・カーセム首相の暗殺計画に参加したが、逮捕を逃れてシリアとエジプトに逃亡。亡命中にエジプト・カイロで法律を学んだ。
政治活動
1963年にバアス党がイラクの政権を握ると、サッダームは帰国し党の要職につく。この第一次バアス党政権が1964年に失墜すると、サッダームは投獄されるが、獄中で党幹部となり、1967年に脱獄。1968年のバアス党と軍のクーデターだアフマド・ハサン・アル・バクルが全権を掌握し、大統領になると、サッダームは最高意思決定機関・革命指導評議会(RCC)の副議長に就任。1973年からは国軍司令官を兼ねる。1979年7月には党内クーデターを成功させ、アル・バクル大統領を引退させた後、自ら大統領に就任。 大統領就任後は反体制派やイスラム教シーア派を激しく弾圧。イラン革命翌年の1980年9月にはイランの石油資源や輸出要路をめぐってイランを奇襲攻撃。イラクは米欧ソの支援を受けるが、イランの徹底抗戦にあって、イラン・イラク戦争は88年に停戦した。 イラン・イラク戦争停戦から2年後の1990年8月、サッダームはクウェートを侵攻・占領。米国の猛反発を受け、1991年の湾岸戦争で敗退。 2001年9月11日の同時多発テロを契機として、ブッシュ政権は国際テロ組織アルカイダをイラクを関連づけた主張を次第に展開。03年にイラク侵攻を開始。同年4月9日にバクダッドは陥落し、サッダーム・フセイン政権は崩壊。
その後
03年12月13日、故郷ティクリート南郊の民家地下に潜伏しているところを米軍に拘束される。04年7月にイラク特別法廷の初公判が開かれ、05年7月に人道に対する罪で起訴された。06年11月5日、特別法廷はサッダームをドゥジャイル虐殺について有罪と判断し、死刑判決を下した。同年12月30日午前6時ごろ、バグダッド北郊の警備施設で絞首刑に処された。