湾岸戦争8
出典: Jinkawiki
2013年8月8日 (木) 00:27の版
湾岸戦争の勃発
1991年、フセイン大統領の率いるイラク軍が、隣の石油大国クウェートを攻撃・占領した。 実は、イラクはイギリス領メソポタミアと呼ばれていた時代にはクウェートとの境界線などはなく、ただ独立する年代の違いによってイラクとクウェートに分割されたという背景があった。以前から、クウェートはイラク領、と主張していたイラクは、クウェートは元の持ち主に戻っただけだと世界に訴えたが、クウェートに多くの石油権益を持っていた欧米諸国は直ちにイラク攻撃を前提に行動を開始した。
1979年、イラクの隣国イラン(ペルシャ)で革命が起こり、欧米諸国からの援助で国家の近代化をはかり、その結果国内の不平等を拡大させたパフレヴィー国王が国民の反発にあって失脚、パリに亡命していたイスラム教シーア派の指導者ホメイニ師を首班とするイスラム体制が樹立されていた。 イラクは1981年からこのイランとの全面戦争を戦っており、アメリカを「大悪魔」と呼ぶホメイニ師と戦うフセイン大統領にはアメリカなどの西側諸国の援助が殺到し、イラクは中東随一の軍事大国に成長した。このように、イラクと西側諸国との関係は良好だったことから、フセインは、たとえイラクがクウェートを併合しても欧米は黙認するのではないか、という見通しを抱いていたと思われる。
ところが、アメリカの思惑を大きく超えて軍事的に強大化したイラクはむしろアメリカの邪魔となったため、アメリカはこの機会にフセイン政権を瓦解させようとした。イラクがクウェートを占領したのは90年で、それから湾岸戦争勃発までには1年近い期間があり、その間にソ連・フランス・国連による和平仲介案が出された。アメリカ政府はそれらをすべて蹴ったのである。 イラクが軍事的に強大になりすぎ、中東の軍事バランスが崩れることを心配したサウジアラビア、シリアなどのアラブ諸国も、侵略を犯したイラクを懲罰するという大義名分のもとに欧米に同調、イラクは世界の孤児となってしまった。 イラクは「わが国がクウェートから撤退するときは、同じく不法にパレスチナを占拠しているイスラエルがその入植地から撤退したときだ」と主張し、反米の気持ちの強いアラブ市民の広い共感を得、さらにイスラエルの不法占拠を世界に知らしめる結果となった。
イラクは、イスラエルに対してスカッド・ミサイルで攻撃をかけるという奇手で欧米・アラブ連合に対抗しようとした。イスラエルが戦争に参加すれば、イスラエルを極端に嫌うアラブ国家が自国に味方すると考えたのだ。これにはアメリカも参り、ブッシュ大統領が必死にイスラエル政府を説得、アメリカ・イスラエル首脳会談で「いつまでもイスラエルが黙っていると思うな」という一言が飛び出すほどのやり取りの末、イスラエルは報復を手控えた。
結局イラク軍といえども最新兵器を誇るアメリカ軍の攻撃の前ではどうすることもできず、1991年に湾岸戦争が勃発、開戦後わずか2時間でイラクは継戦能力を喪失してしまった。
湾岸戦争後の影響
湾岸戦争後、多国籍軍などがクウェートの油田地帯を攻撃した結果、原油流失によって環境汚染や油田の炎上による大気汚染などの環境破壊も起こった。 また湾岸戦争をきっかけに、アメリカは中東に大きな位置を占めることになった。クウェートは無事に「復活」し、さらに油田の警備を目的にサウジアラビアに2万のアメリカ軍を常駐させた。これはアラブ人を大いに憤慨させた。サウジアラビアにはイスラム教最高の聖地・イスラム教の開祖ムハンマド(マホメット)の出身地メッカがある。 アラブ人の目には、サウジアラビアのサウード王家がその聖地をキリスト教とのアメリカに明け渡した、と映ったのだ。アメリカの女性将校が体の形を露骨に表す制服を来てサウジアラビア国内を歩くとき、どれだけアラブ人が嫌悪感を抱くことか。
サウード王家を公然と批判したのが、サウジアラビアの公共事業で材をなした大富豪・ビンラーディンであったことはご存じであろうか。ビンラーディンは湾岸戦争をきっかけにイスラム教復興を目指して王家転覆を企て、スーダンにわたっていたときに国籍を剥奪されてしまっている。 その彼を救ったのが、パレスチナで彼と知り合い大きな影響を受けたアフガニスタン・タリバーン政権の精神的支柱にして最高指導者のオマール師である。オマール師はビンラーディンをアフガニスタンに招き、客人としてもてなしたという。
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