ノート:宗教4

出典: Jinkawiki

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キリスト教の起源;紀元1世紀なかごろ、イエスの死後に起こった弟子の運動(初期キリスト教運動)が、キリスト教の直接的な起源である。キリスト教の教義はユダヤ教の律法を基礎としたイエスや使徒の言行から発展した。理論的発展を基礎付けたのはパウロ書簡およびヨハネによる福音書である。新約聖書の他、ユダヤ教の聖典でもある旧約聖書を教典とする。新約聖書の範囲は 4世紀ごろ確立に到った。一方旧約聖書の範囲は教派により異なる。旧約聖書およびキリスト教を参照のこと。一般に旧約聖書と新約聖書のみを聖典とする宗教をキリスト教とみなすが、まれにこの両者と同等ないしそれ以上の価値をもつとされる文書を使用し、かつキリスト教を名乗る宗教も存在する。東方正教会、ローマ教皇を中心とするカトリック、カトリックに対する宗教改革から発生したプロテスタントがある。ほか数は少数ながら、エチオピア・エジプト・イラク・シリア・アルメニア・インドに渡って信者を有し、その地方では無視できない信徒人口をもつ東方諸教会と呼ばれる教派もある。 福音書;『新約聖書』中、イエスの生涯や言行を記録したもの。ふつう、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四福音書。この四書の四人の記者を福音史家といい、それぞれ象徴を定めて、マタイは人間、マルコは獅子、ルカは牛、ヨハネは鷲がそれだとする。ただし原始キリスト教文献の中には、「トマス福音書」「ヘブル人の福音書」などのように、正典以外に福音書と呼ばれるものもある。福音書はまた「伝」で表記される場合もあり、例えば「マタイ伝」「ヨハネ伝」などとする。 キリストの誕生; 神の遣いの天使ガブリエルは、ナザレにあるガリラヤという町にやってきて、ヨセフの妻マリアに、 「あなたの胎内には子が宿っている」と告げた。処女だったマリアは戸惑う。ガブリエルは、 「それは神の子です。男の子を身ごもっているので、生まれたらイエスと名付けなさい」と続けた。 驚いたのはヨセフのほうである。彼は怒ってマリアとの離婚を考えていたが、そんなある日不思議な夢を見た。 「恐れずマリアを迎え入れなさい、神の子を授かったのです。イエスと名付けなさい」というものであった。 その後、時のローマ皇帝アウグストスの命令で、この夫婦は住民登録のために本籍のある ベツレヘムに向かっていたが、その途中マリアは月満ちてキリストを出産した。 宿が見つからなかったために馬小屋で行われた。 その地方では羊飼いが夜通し羊の群れの番をしていたが、彼らの前に突然天使があらわれ、 「いま、救世主がお生まれになった。馬小屋の飼い葉桶に寝ている」と告げたのだ。 不思議がった羊飼いたちは確かめようとベツレヘムに向かい、夫婦とキリストを探し当て、すべて天使の 言葉通りだったので神を崇めた。そして8日たって割礼をすませた後、彼はイエスと名付けられた。 旧約聖書;一つの書ではなく、さまざまな文献が後になってまとめられたのが、今の旧約聖書だ。つまり聖書とは、一つの書物ではなく、39の書物が一つにまとめられたのがいまの旧約聖書。旧約聖書の言語はごく一部のアラム語でかかれた部分をのぞき、ヘブル(ヘブライ)語で書かれている。また、天地創造(人間は誰に創造されたのか)、また神が人に与えられた律法なども書かれています。代表的な例として、「天地創造の物語」、「イブの誘惑」「十戒」、「ノアの箱船」などがある。 旧約聖書、新約聖書違い;旧約聖書は、主にイエス・キリストが誕生する前のユダヤの民と神との約束の歴史を描き、新約聖書は、主にイエス・キリストの誕生・生涯・教えが書かれてる。 カトリック;カトリックの教会がいつ始まったか、確かな年代は不明。(但し、カトリック教会は、その起源はイエス・キリストにあり初代の法皇がペテロであったと主張してる。)ただ、2世紀中期以降、徐々にカトリック教会の伝統が作り上げられたようだ。ローマ帝国では首都ローマが政治的、経済的な面はもちろん、あらゆる面において地方都市の模範になった。首都ローマの権力ゆえに、ローマ教会の内外への権限と影響力がおのずと大きなものになっていった。その当事、影響力のある教会はローマ教会の他に少なくとも2つあった。エルサレム教会とアンテオケ教会です。その様な中で教会間の権力闘争が始まりました。3世紀の初期ごろからローマ教会は、ローマ教会が使徒パウロとペテロによって建てられたという事を基に、教会のリーダーであるべきだと主張し始めた。その後、2つの重要な出来事が起きた。その一つはローマ皇帝コンスタンチンが312年にクリスチャンになった事だ。この事によりキリスト教がローマ帝国の国教になり、より権威主義的要素が強くなったのです。つまり宗教に政治的要素が入り込んだ。そして教会間での権力争いも激しさを増し、ローマ教会はその権威を一層強く主張した。ローマ教会は、帝国の皇帝が教会員であるいう事もあり、権力を増していきました。最終的に、ローマ教会の権威に他の教会も屈服するようになった。第二の事件は、コンスタンチンがローマ帝国の首都をコンスタンチノープル(今のイスタンブール)に移した事。最初、この動きはローマ教会に不利に働くように思えた。しかし、事実はその逆。ローマ教会はローマから皇帝がいなくなったために、事実上のローマの支配者になった。そして、ローマ教会は、コンスタンチン皇帝から皇帝が住んでいた城を譲り受けた、という文書を作成し、民衆に示す事によって、その権威を内外に示した。ところが、15世紀にその文書は偽造された物であった事が発見された。このような文書は初めから存在しなかったのです。これはカトリックの方たちも認めるまぎれもない事実。ローマカトリック教会の特徴は、ローマ教皇の権威、または教会の権威を掲げたことだ。 プロテスタント、ヨーロッパのルネッサンスの一部、宗教改革によってもたらされた。プロテスタントの元々の意味は、英語で「抗議」という意味だ。カトリック教会に抗議するという意味で後に付けられた名称である。初期の宗教改革のリーダーの中には多くの聖書学者がいた。その中にはルター、カルヴィンなど一般の方でも聞いたことがある名前がある。 宗教改革には共通した3つの主張がある。第一に、各々が聖書を読む機会が与えられるべきである、と。(この考え方は万人祭司といわれる。)これはルネッサンスにおける産業革命で印刷の技術が発達した事にも関連している。カトリック教会では、一般の信者は聖書を所有できなっかた。ところが、この時代に聖書は英語に翻訳され、出版技術によって一般の信者の人たちに聖書が届くようになった。このような環境の中で、各々が聖書を読むべきだと言う考えが浮かび上がった。第二に、信仰と神の恵みによる救いを宗教改革者たちは訴えた。カトリックの信仰では、信者は赦しを得るために、ローマ教会への巡礼、祭司への罪の告白などの様々な事を行ないました。恵みによる救いという概念は、残念ながら中世のキリスト教にはありませんでした。それを宗教改革者たちは正そうとした。第三に、教会の権威を認めながらも、聖書の権威を強調した。(聖書が信仰生活のすべての基準)カトリック教会では教会の権威のもとに、聖書とは他にいろいろな決まり事を作りった。これらの決まり事に、ある一部の宗教改革者達は反発を覚え、聖書の権威の重要さを強調した。 イスラム教;イスラム教は、7世紀はじめに、メッカの名門の出身であるムハマド(マホメット)によって開かれた。ムハマドはアッラーの神の声を聞くことの出来る預言者として、「アッラーがただ1人の神であり、宇宙の創造主である。」 というイスラム教の教えを広めた。しかし、そのころアラビアの人々は多神教を信じていたので、ムハマドは迫害を受け、西暦622年に少数の信者を連れてメディナへ移住した。この移住をヘジラ(聖遷)とよび、イスラム教では、この年を紀元元年としている。ムハマド達がメディナへ移住してから10年余りの間に、アラビア人のほとんどがイスラム教を信じるようになった。最後まで反対していたメッカの人々もムハマドに従がった。 『イスラム』とは、アラビア語で 「平和であること、(アッラーに)絶 対におすがりすること」を意味してる アッラーがムハマドにくだされた教 えを記録したものが、イスラム教の聖 典である「コーラン」だ。イスラム 教徒は今でもこの「コーラン」に書か れている教えを忠実に守って生活してる。イスラム教は、教徒の大部分を占め るスンニ派と約1割の教徒からなるシ ーア派の二大宗派がある。サウジ アラビアの人々の大部分はスンニ派。この2つの宗派はスンナ(ムハマ ドの範例・慣行)のとらえ方に大きな 違いがある。スンニ派の人々は、 ムハマドの教友から語り伝えられてき たことの中にスンナが見いだされると 信じており、シーア派の人々は、ムハ マドの血を引く後継者の伝承を通して スンナを解釈している。サウジ王家は、スンニ派の中のワッハプ派の教主。サウジアラビア王国は、イスラム教を国教とする国である。社会習慣も法律も全てスンナに則っておこなわれる。この国の憲法は、コーランであるともいえる。西暦1994年は、ヘジラ歴では、1415年です。西暦622年がヘジラ歴の元年なので、単純に計算すると、  1994-622=1372となりヘジラ歴の1415との差は、  1415-1372=43となり 43年も、違ってきている。 これは、西暦は太陽暦であるのに対しヘジラ歴は、太陰暦を使っているためだ。 仏教;現在わが国で広く用いられている仏教の語は、明治時代に始まり、江戸末期までは仏法、仏道とよばれた。インドでは古くから今日まで、創始者であるブッダBuddha(釈迦(しゃか))にちなんで、バウッダBauddhaの語が慣用され、それは「ブッダに属する」「ブッダの信奉者」を表す。いわゆる仏教は、バウッダ・ダルマ、またバウッダ・ダルシャナと称し、ダルマは法(ないしいわゆる宗教)、ダルシャナは思想を意味する。仏教は、ゴータマ・シッダールタ(ガウタマ・シッダッタ)が覚(さと)りを開いてブッダ(覚者(かくしゃ))となり、その教えを説いた時点に始まり、その教えに心服した人々が仏弟子もしくは在家信者(ざいけしんじゃ)となって、比較的緩やかなサークルが生じ、やがて教団に発展する。とくにブッダの滅後に、教団の団結が進み、同時に多数の仏弟子たちがかつてのブッダに倣って、インド各地にブッダの教えを説き、仏教はしだいに北インド一帯に、その後はかなり速く全インドに広まる。しかし仏滅後100余年(別説200余年)ごろに、種々の異分子を抱え、いささか拡大しすぎた教団の内部に分裂がおこり、保守派の上座部(じょうざぶ)と進歩派の大衆部(だいしゅぶ)とに分かれ、その後さらに細分裂が進行する。こうして生じた部派のうち、上座部系の長老部の仏教が紀元前3世紀なかばにスリランカに伝えられて、いわゆる南伝仏教(または南方仏教)を形成する。インドには部派仏教が栄える一方に、しばらくしておよそ紀元前後ごろから大乗仏教がおこり、ここにあまたの大乗の諸仏が新たに出現した。以後は、部派と大乗とが並列し、7世紀に入ると密教が栄え、後述するとおり13世紀まで継続する。北インドから西進した仏教は、西域(せいいき)を経て、紀元1世紀ごろに中国に入り、仏典の漢訳が進められる。その経巻と仏像とを携えて、4世紀には朝鮮半島へ、6世紀には日本へ、またインドから直接チベットへと、仏教は伝わるが、それらの主流は大乗仏教であり、やがては密教を加える。これらの北伝仏教(北方仏教)の大半は、種々の変遷を経て、ほぼ今日に至る


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