本木昌造

出典: Jinkawiki

(版間での差分)

2014年7月23日 (水) 21:29の版

本木昌造

本木昌造(もとき しょうぞう または もとぎ しょうぞう)は1824年(文政7年)生まれの企業家である。 1834年(天保5年)、当時11歳であった昌造は阿蘭陀(オランダ)通詞の本木昌左衛門のもとへ養子に出される。 ここで蘭語を学んだ昌造は23歳の時に養父と同じ小通詞並(現代で言う通訳)の職に就く。 職業柄洋書と触れ合う機会の多かった昌造は、外国の印刷技術に感銘を受け、日本でも日本語の印刷物を作れないかとあれこれ考案する。 そこでオランダの貿易商人から印刷機材一式を購入し研究を重ねるも、なかなか成功することはなかった。 1851年(嘉永4年)28歳になった昌造は、我流の流し込みによる活字印刷を製造し、それによって自身の書いた文書を印刷もしている。 しかしこの印刷物で満足のいかなかった昌造は、さらに活字印刷の研究をしていく。 1853年(嘉永6年)ロシアのプチャーチンが長崎へ来航、翌1854年(安政元年)下田へ向かうが、下田での条約交渉の際の通詞を担当している。 1860年(万延元年)長崎製鉄所(現三菱長崎造船所)の御用係に任命され、自らイギリスより蒸気船を購入し船長を務めたり、1868年(慶応4年)には日本で初めての鉄橋「くろがね橋」建設を手掛けるなど、精力的に活動する傍ら活字印刷についても考えていたのである。 1855年(安政2年)長崎奉行所が活字判摺所を役所内に設けたとき(のちの出島印刷所)、自ら御用係となった。 ここで昌造は蘭書の印刷に携わることになるがまだ活版印刷は確立しておらず、木版と流し込み活字の併用という手法で印刷は行われていた。 時代が明治へと変わった1869年(明治2年)、昌造は中国・上海にて印刷所の館長をしていた活版技師ウィリアム・ガンブルと出会うこととなる。 彼の指導の下、電胎法という電気メッキの技術を用いる新しい母型製造法を会得し、日本で初めての民間活版業でもある新町活版所を設立する。 この印刷所は後に大阪、東京、横浜と支所を設立していき、横浜では洋紙を用いて初めての新聞が刊行されることとなる。 またこのとき東京で長崎の書体を引き継ぎ製作を重ねた書体は通称「築地体」と呼ばれ、今現在日本で使われている印刷文字の源流にもなっている。 こうして本木昌造は1875年(明治8年)52歳で亡くなるまで、日本の活字印刷に生涯にわたって精力的に活動したのだった。

参考文献 長崎県印刷工業組合 http://www.nagasaki-pia.org/ ぷりんとぴあの小箱 http://www.jfpi.or.jp/printpia/index.html


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