ゴルバチョフ

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ゴルバチョフとは、1985~91年の間、ソ連の共産党書記長を務めた人物である。


ゴルバチョフの新思考外交と冷戦の終結

1985年の3月に、ゴルバチョフは共産党書記長に就任した。

同年の11月にジュネーブで、翌年の10月にレイキャビックで米大統領レーガンとの首脳会談に臨んだ。

またアメリカとは1987年12月には 、ワシントンで既存の核兵器を廃棄する史上初の条約、中距核戦力(IMF)全廃条約に調印した。

ヨーロッパに関しては、1988年の3月に東欧に関する新ベオグラード宣言で各国の社会主義の道を尊重してソ連の指導性を否定し、1989年には、東西ヨーロッパの体制の違いを越えて協力体制を築くべきであるという「ヨーロッパ共通の家」の構想を発表した。

アジアに関しては、1988年にアフガニスタンからの撤兵を表明し、1989年には鄧小平と会談し中ソ対立を終結させ、1990年には韓国と国交を樹立した。

1989年のベルリンの壁崩壊後には、米大統領のブッシュとともに冷戦の終結を宣言した。

その後も両国は、1991年7月に相手の本土を直接攻撃することのできる長射程の核兵器を削減する条約、戦略兵器削減交渉条約(START1)に調印し、1993年1月には追加条約(START2)が締結された。


グラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(改革)

ゴルバチョフは外交の変革と同時にグラスノチスによる言論の自由を打ち出した。        

国家指導に不適当とされる犯罪統計や災害・事故に関する情報を公開し、スターリン時代の過去が洗い出された。

また新聞・雑誌においては、文学・芸術の表現の自由が追求され、政治・外交に関する議論が活発に展開された

成長の鈍化、技術革新や産業の高度化の遅れが明らかになったソ連を立て直し、停滞を打破するための政策を1986年にペレストロイカと称した。

1986年4月にウクライナのチェルノブイリ原子力発電所の事故への対応の鈍さと情報の遅れは、この2つの政策の必要性が広く認識された。


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