ハンソン論争

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「オーストラリア移民政策論」中央公論事業出版 浅川晃広 「オーストラリア移民政策論」中央公論事業出版 浅川晃広
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 +「オーストラリアの社会」http://www.globalcom-japan.com/aust05.htm

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 1996年3月2日に行われたオーストラリア連邦議会選挙で初当選した無所属の女性連邦下院議員、ポーリン・ハンソンの先住民・移民に関する発言から引き起こされた先住民・移民・人種論争である。この論争は、単なる人種差別主義に基づくものではなく、政権交代や、それに伴う社会的・経済的な変動と密接に関係のあるものである。それゆえ、「移民論争」の理解においては、その背景の社会的、経済的要因を考慮する必要がある。

 

背景

  ハンソン論争が発生した時期は、オーストラリア社会でさまざまな変動が発生した時期でもある。人種によって移民の選別を行わないとする「無差別移民政策」を土台とする多文化主義を1970年代から国策として採用した以降においても、さまざまな移民・人種論争が発生した。1984年、メルボルン大学の教授の歴史学者、ジェフリー・ブレイニーにより引き起こされたベトナム難民受け入れを争点とするアジア系移民論争、1988年、移民受け入れの削減、市民権と永住権の権利格差拡大などを政府に提言したフィッツジェラルド報告書を発端とする論争などがそれである。    ハンソン自身が当選した連邦下院選挙では13年間続いた労働党政権が大差で敗北し、自由党と国民党の連立政権が復活し、ジョン・ハワードが首相に就任した。このハワード政権は教育予算を含む各種の政府支出削減を行った。移民政策に関しても大きな変化があり、労働党政権において重点が置かれていた家族移民から技術移民を優先する方向性を打ち出し、家族移民受け入れの大幅な削減を行い、その後技術移民の受け入れを大幅に拡大していった。また1996年12月、最高裁判所は先住民の土地権が牧畜リース地にも存在することを示した「ウィック判決」を下したが、それを履行するための法案は先住民との間に大きな軋轢を生みだした。ハワード政権が起草したその法案は先住民土地権を制限するものとして先住民はもとより労働党、および各界から批判を浴びせられた。さらに、前首相のポール・キーティングが推進した共和制移行問題においても、共和制を議論するための憲法会議の投票が1997年12月に行われ、1998年2月に憲法会議が開催された。そのうえで、1996年11月6日に共和制移行を問う国民投票が行われるに至っている(結果は否決)。ハンソン論争はこのような政権交代を含むオーストラリア社会の変動の時期に発生した。

展開

 このハンソン論争は1996年9月10日のハンソンの議会での演説が発端となり、超党派の議会決議採択にまで至った。そして「ワン・ネイション」の設立によって再燃し、集会への抗議活動を含むさまざまな批判を巻き起こした。その論争は、労働党政権からハワード保守連合政権の成立、移民政策の転換、先住民問題、共和制議論、さらには雇用状況の継続的悪化といった中で展開した。ハワード首相の対応の遅さに象徴されるように、ハワード政権下での移民政策、先住民政策などがこの論争自体の発生、またはその拡大に一定の役割を果たしたといえる。しかし、先住民やアジア系移民を一方的な標的とした主張には広範な批判がなされ、「ワン・ネイション」の支持率も下落し、ハンソン自身も落選し、連邦および州議会でもほとんどの議席を失う結果となった。shuto

参考文献

「オーストラリア移民政策論」中央公論事業出版 浅川晃広

「オーストラリアの社会」http://www.globalcom-japan.com/aust05.htm


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