オサマ・ビンラディン4

出典: Jinkawiki

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ウサマ・ビン・ラディンもしくはオサマ・ビン・ラディン 国際テロ組織アルカイダ(アル・カイダ)のトップとされる人物。1957年生まれ。実家はサウジアラビア有数の大富豪である。

<生い立ち>

父ムハンマド・ビンラディンの10番目の妻でシリア生まれのハミド・アル=アッタスの子)としてサウジアラビアのリヤドで生まれ育った。 敬虔なワッハーブ派ムスリムとして育てられ、世俗の学校に通ったがエリート教育がなされた。青年時代にはジッダのキング・アブドゥルアズィーズ大学・経済・管理学部に入学するが、宗教や詩作に向かいクルアーンやジハードの研究に没頭し、バーナード・モントゴメリーなどの軍記物を好んで読んだとされる。

<ムジャヒディンへの参加>

1979年に大学で学位取得後、アフガニスタンに侵攻したソ連軍と戦うための義勇兵(ムジャヒディン)に参加。 アフガニスタンでの対ソ戦の戦況はムジャーヒディーンの多大なる活躍により好転する。ソ連軍撤退後にサウジアラビアに帰還。湾岸戦争の際に、両聖地(メッカとメディナ)を擁するサウジの国土に外国軍、それもイスラエルを支持するアメリカの軍隊が大々的に駐留するという事態にショックを受け、ビンラディンは反米意識を高め反米活動に転じていった。

<反米活動>

1988年8月にはビンラディンを中心にムハンマド・アーティフらジハード団からのメンバーらがアルカイダを創設した。 米軍のサウジアラビア駐留直後の1990年11月、FBIはニュージャージー州のエル・サイード・ノサイル(アルカイダ幹部であるオマル・アブドッラフマーンの一味)の住居を摘発、ニューヨークの超高層ビル爆破計画の資料を押収した。ノサイルはラビのメイアー・カハネを殺害したアルカイダのメンバーで、これが西側での爆弾テロ計画が露見した最初となった。サウード家は、ビン・ラーディンを危険視、国外出国を禁止する。 ビンラディンは1992年に密かにサウジアラビアを脱出、アフガニスタン、スーダンなど各国に移動し各国のテロ組織への支援を行った。 アルカイダは数々のテロ活動を指導し、この活動に呼応する人々により多くのテロが起きる。 そしてヒズボラによるベイルート・アメリカ海兵隊兵舎爆破事件が起こり300人を越える米兵・フランス兵が死亡した。米軍基地までもがテロの標的となった波紋は大きく、アルカー

<9.11以降>

アメリカは2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件の首謀者をウサーマ・ビン・ラーディンとアル・カーイダであると断定した。そして彼らが潜伏するアフガニスタンのターリバーン政権に引き渡しを要求した。しかし、ターリバーン側は、「証拠があれば引き渡す。しかし、今の段階ではアルカーイダのやったこととは断定できない。」と主張し、引き渡しを拒否。これに対してアメリカ合衆国軍はアフガニスタンのターリバーン政権に対して攻撃を開始しタリバーン政権を崩壊させた。 しかしその後もアメリカの大規模な捜索にもかかわらず拘束することができないまま10年近くが経過したが、2011年5月2日、パキスタンにおいてアメリカ軍によりオサマ・ビンレディンの殺害が確認され、2001年以来続いてきた対テロ戦争はようやく収束していくことになる。 こうしてアメリカに対し攻撃を仕掛け続けたオサマ・ビンラディンの生涯は終わりを迎えるのであった。

参考文献

・オサマ・ビンラディンの生涯と聖戦 著 保坂 修司

・国際テロネットワーク:アルカイダに狙われた東南アジア 著 竹田 いさみ


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