外国人労働者

出典: Jinkawiki

(版間での差分)

2008年6月27日 (金) 19:07の版

   日本の外国人移住について

1、移民の歴史と現状 単一民族主義が動揺するきっかけとなったのは、1970年代後半からはじまる新米外国人の到来と、1982年に発効した難民条約への加盟であった。 日本経済が1970年代はじめにおきた石油ショックに由来する経済不況から未だに回復していなかったのにかかわらず、1970年代末から1970年代前半に期せずして異なる四つの形態での外国人の新たな流入が始まった。かれが新米外国人の流入の「出発期」である。  その第一の形態は、1970年代末からの風俗関連産業に従事する女性の外国人労働者であり、初期にはフィリピン女性が多数を占めた。その後フィリピン女性のほか韓国、台湾、タイの女性も加わった。第二の形態は、難民条約への加入の引き金となったベトナム、カンボジア、ラオスからのインドネシア難民である。1970年代後半から国際的対応が求められたことにより開始された日本の難民の受け入れは主に1980年代におこなわれたが、総計1万人強にとどまり、1989年のスクリーニングの実施以後実質的に終息した。第三の形態は、中国帰国者二世・三世たちである。日本の植民地であった中国東北地方に渡ったりそこで生まれたりして、第二次世界大戦後置き去りにされた日本人が数多くいる。そして、中国帰国者2世・3世たちが生まれ、そのうち中国籍をもつものの総計は5-6万人に達している。そして第四の形態は、欧米系ビジネスマンである。

次に難民条約であるが、日本は1951年の難民条約および1967年に作成された同上「議定書」にはなかなか加入しようとしなかった。けれども、1979年にインドシナ国際会議が開催され、これをきっかけにして、国際世論の圧力のもとに日本政府はようやく1982年に条約に調印した。この条約が外国人と日本人との均衡待遇を義務ずけていたことから、社会保障に関連する分野で外国人に対する差別がある程度軽減された。すなわち、政府は1982年に国民年金、児童手当、および児童扶養手当てについて日本人の限定を解除した。また1986年には、職場で健康保険が適用されない外国人に対して、その移住する自治体の国民年金保険への加入を認めた。なお、職場で加入する健康保険、厚生年金、雇用保険、労災保険にはもともと国籍についての規定がない。これらの措置により、社会保障については難民ばかりじゃなくて一般外国人および在日韓国・朝鮮人も救済されることになった

日本の移民問題の今後わを考える場合、第一に外国人労働者としての移民については、景気の動向がきわめて重大な影響を与えるだろう。現在の経済的不況のもとでも外国人労働者数はほぼ同水準を保っている。それを考慮すると、日本経済が好況に転じればさまざまな経路による外国人労働者の導入作が講じられ、大量流入が再開されるかもしれない。しかし、長期的にみれば日本社会は異常なスピードで高齢化の道を歩んでいる。老人人口がかつてない水準にまで増大するとき、若い労働力への需要は必然的になるかも知れない。老人介護の必要性がそれを後押しするだろう。こうして、長期的には外国人労働者に依存せざるをえないという声が高まるということも考えられる。その際、その供給源をどこに求めるかという問題が生じる。日本人については、ブラジルの日系人の総人口自体が130万人程度にしかすぎず、これ以上の大幅な伸びは期待できない。


  人間科学大事典

    ---50音の分類リンク---
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                          
                  
          

  構成