第二次世界大戦5
出典: Jinkawiki
2015年7月31日 (金) 10:51の版
第二次世界大戦 ファシズムの政治体制(せいじたいせい)をとるドイツ・イタリア・日本などの枢軸(すうじく)国と,アメリカ合衆国(がっしゅうこく)・ソ連(れん)などの連合(れんごう)国がたたかった世界戦争(せんそう)(1939年9月1日〜1945年8月15日)。太平洋戦争(せんそう)*はその一部である。
初め、枢軸国が優勢であったが、のち、連合国が優位に立ち、1943年イタリアが降伏、1945年5月ドイツが降伏。また、日本もソ連の対日参戦とアメリカによる広島・長崎への原子爆弾投下によって、同年8月に降伏し、大戦は終結した。 日中戦争の開戦後に施行された国家総動員法以降、軍需品の生産は飛躍的に増加し、これを補うために自家用車や贅沢品などの生産や輸入が抑えられ、「国民精神総動員」政策の元に「ぜいたくは敵だ」との標語が多くみられた。さらに1938年よりガソリンの消費を抑える目的で導入された木炭自動車が増え、1940年には、外貨の流出を防ぐため個人利用目的の欧米からの自動車の輸入が禁止された。また、電気を浪費するためパーマネントも禁止となった。また、戦時下において団結や地方自治の進行を促し、住民の動員や物資の供出、統制物の配給、空襲での防空活動などを行うことを目的に、1940年に「隣組」制度が導入されたが、生活必需品や食料の生産及び流通はこれまでと変わらず、レストランやビヤホール、料亭などの営業は通常通りに行われた。1941年12月に対英米戦が開戦すると、1942年には食糧管理制度が導入され物価や物品の統制がなされ、政府に安い統制価格で生産品を売り渡すことを嫌った農家が売り渋りを行ったため、生産量は変わらなかったにもかかわらず食糧の流通量が減った[48]他、米など一部の食糧は配給制度が実施された。ただし、食料の配給の優遇を受けたレストランや食堂、ホテルなどで外食をしたり、闇で食料を調達することもできた上、新たに占領下に置いた外地から原油などの資源や食料の調達も可能になったこともあり、大戦終結の前年の1944年の初頭頃までは生活必需品や食料が不足することはなかった[49]。その後南方とのルートの制海権を連合国側に握られた1944年暮れになると、外地からの食料のみならず、肥料などの生産に必要な各種原料の輸入、漁船を動かすための燃料の供給が減ったことから、食料の生産や魚類の生産、配給量も急激に減りその質も悪化していったため、窮乏生活を余儀なくされ闇取引が盛んになった[50]。電気やガスについては、燃料・原料の石炭が日本国内で自給できたため滞る事は無かったが、1945年に入ると、連合国軍機による相次ぐ空襲によって発電所や工場が破壊され、供給が滞るようになった。その他、空襲や機銃掃射を受けて鉄道の遅延や停電が常態化した。なおこのような窮乏生活は戦後も2、3年間続くこととなった。 M.Y(http://www12.plala.or.jp/rekisi/dainijisekaitaisen.html