アダム・スミス5
出典: Jinkawiki
2015年8月1日 (土) 00:07の版
’’’アダム・スミス’’’とはイギリスはグレートブリテン王国スコットランド出身のの経済学者であり神学者であり、哲学者である。主著は『国富論』(『諸国民の富』とも紹介される)である。いわゆる「経済学の父」である。2007年からイングランド銀行が発行する20ポンド紙幣に肖像が使用されており、過去にはスコットランドでの紙幣発行権を持つ銀行の一つ、クライズデール銀行が発行する50ポンド紙幣にも肖像が使用されていた。
==来歴== 税関吏を父としてスコットランドの海沿いの町カコーディーに生まれたアダム・スミス。父は生まれる半年前に没した。生年月日は不詳であるが、1723年6月5日に洗礼を受けたことは明らかになっている。母は、亡き夫と同じアダムという名前を一人息子につけ、愛情を注いだ。スミスは4歳の時にスリに代用しようと誘拐されたものの、誘拐犯からスリには向かないといわれ、解放されてしまうほど内向的性格を持っていた。 グラスゴー大学でフランシス・ハチソンの下で道徳哲学を学び、1740年にオックスフォード大学に入学。1746年に退学。1748年からエディンバラで修辞学や純文学を教え始め、1750年頃、ヒュームと出会う。その後1751年にグラスゴー大学で論理学教授、翌1752年に同大学の道徳哲学教授に就任する。1757年、ジェームズ・ワットが同大学構内で実験器具製造・修理店を開業することを手助けしてくれた。1759年にはグラスゴー大学での講義録『道徳情操論』(『道徳感情論』とも紹介される)を発表、名声を確立。同書の理論は我々には道徳を感じる感覚があるモラル・センス学派に含まれる。1763年には教授職を辞し、第3代バクルー公爵ヘンリー・スコットのグランドツアーに家庭教師として同行し渡仏する。その頃パリのイギリス大使館秘書を務めていたヒュームの紹介でジャック・テュルゴーやジャン・ル・ロン・ダランベール、フランソワ・ケネーをはじめとする知識人と親交を結んだ。しかし、バクルーの弟がパリで病没したことをきっかけにイギリスに戻った。スミスは1766年にスコットランドに戻り、1776年3月9日に出版されることになる『国富論』の執筆をする。アメリカ独立、テュルゴー失脚の年に発表された『国富論』はアダム・スミスに絶大な名誉をもたらし、イギリス政府はスミスの名誉職就任を打診したものの、スミスは1778年にエディンバラの関税委員に任命された。他に法学に関する著作を執筆する意欲を『道徳感情論』と『国富論』に記したが、果たさなかった。グラスゴー大学時代の法学講義を学生がとったノートが1895年に見つかり、後に公刊された。1782年の母の死後は奇行が目立ち、税関職員の制服に身を包み、街を徘徊するようになる。1787年にはグラスゴー大学名誉学長に就任し、1790年にエディンバラで67歳で死亡した。収入の相当部分を慈善事業に捧げ、死の直前、草稿類をすべて焼却させた。
==国富論== 国富論の多きは重商主義政策への批判であり、貨幣政策・関税政策・租税改革と国債の発行等について展開されている。この書物は、経済理論を体系的に著述していると同時に、重商主義的視点をコペルニクス転換させている。本書のタイトル自体にも記されており、その長い英文タイトルは、書名の一般的な形式で大文字で記されているものの、富の「性質と原因」の原文では、"Nature"と"Causes"は、頭文字以外、小文字が用いられている。富の「性質と原因」を金属貨幣の量とその獲得手段としての外国貿易に重点を置いた重商主義の主張に対し、国富を「年々に国民が享受しうる生産物量と捉え、その原因を国民の労働と考えるアダム・スミスの、重商主義に対する強い批判的意図が込められていると考えるべきであろう。 重商主義は、絶対王政のもと、貿易によって財貨を得ることで一国の富を増大させようとしたが、その政策の結果として、金貨幣が大量に国外に流出し、軍事支出の増大とともにイギリス経済を疲弊させた。
現代人が読んでも納得のいく論であり、彼の道徳感情論もまたそれに準じたものである。シンパシーやフェアプレーがないと国は富まず、諸国民の心にもわだかまりを残す。2015年、人間はアダムが提唱した時から300年経った今、何を考えて生きていくべきかもう一度考える必要があるだろう。 kksm