タミル人
出典: Jinkawiki
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== 概要 == | == 概要 == | ||
- | インド南東部を中心にスリランカ北部などにも居住し、ドラビダ語族に属するタミル語を用いる民族で、古くから海上交易を行い、王朝をたて独自のヒンズー文化を栄えさせた民族である。また東南アジア各地やアフリカなどへの移民が多い。 | ||
+ | インド南東部を中心にスリランカ北部などに居住し、ドラビダ語族に属するタミル語を用いる民族で、古くから海上交易を行い、王朝をたて独自のヒンズー文化を栄えさせた民族である。また東南アジアやアフリカなどへの移民が多い。 | ||
== スリランカ内戦 == | == スリランカ内戦 == | ||
スリランカでのアーリヤ系で仏教徒のシンハラ人(人口の7割)と、ドラヴィダ系でヒンドゥー教徒の少数民族のタミル人(人口の2割)との民族・宗教的な対立のことである。 | スリランカでのアーリヤ系で仏教徒のシンハラ人(人口の7割)と、ドラヴィダ系でヒンドゥー教徒の少数民族のタミル人(人口の2割)との民族・宗教的な対立のことである。 | ||
- | 1983年から、が分離独立を要求し、「タミル・イーラム解放の虎(LTTE)」がテロ活動を開始し、スリランカは内戦となり、1987年にインドのラジブ=ガンディー首相が内戦に介入してインド軍を出兵させ、タミル人の弾圧にあたった。しかし、1991年にはタミル人過激派によって暗殺された。その後も内戦は激化し、多くの死者がでた。ようやく2002年に停戦に合意して、和平交渉が行われたが、93年5月には大統領の暗殺事件が起こった。そして8月には外相が暗殺されるという事件が立て続けに起こり、停戦が心配された。しかし、「タミル・イーラム解放の虎(LTTE)」はスリランカ北部に拠点を設け、全盛期には国土の3分の1を制圧したが、08年から政府軍の攻勢を受けて次々と拠点を失い、最後は北部の狭い地域に20万近い民間人を「人間の盾」にして立てこもる戦術をとった。それに対し、政府軍は攻勢を強め、2009年5月17日に民間人全員を解放し、18日にはLTTEの議長を射殺して全土の解放を宣言し、内乱を一応終結させた。 | + | 1983年から、が分離独立を要求し、「タミル・イーラム解放の虎(LTTE)」がテロ活動を開始し、スリランカは内戦となり、1987年にインドのラジブ=ガンディー首相が内戦に介入してインド軍を出兵させ、タミル人の弾圧にあたった。しかし、1991年にはタミル人過激派によって暗殺された。その後も内戦は激化し、多くの死者がでたが、ようやく2002年に停戦に合意した。しかし、「タミル・イーラム解放の虎(LTTE)」はスリランカ北部に拠点を置き、全盛期には国土の3分の1を制圧した。しかし、2008年から政府軍の攻勢を受けて次々と拠点を失い、最後は北部の狭い地域に20万近い民間人を「人間の盾」にして立てこもる戦術をとった。それに対し、政府軍は攻勢を強め、2009年5月17日に民間人全員を解放し、18日にはタミル・イーラム解放の虎の議長を射殺して全土の解放を宣言し、内乱を一応終結させた。 |
+ | == 問題点 == | ||
+ | そもそもなぜこの民族の対立が起こってしまったかというと、大航海時代にポルトガル、とオランダがシナモンを求めて来航し、二つの国が湾岸地域を植民地化し、1815年に島の全領土が英国の植民地となった。この時に、それまであった二つの民族の境界線は無視され、統一的に支配されるようになった。さらに英国は二つの民族を平等に扱わずタミル人を優遇した。その結果、シンハラ人は貧しくなり、タミル人のほうが良い生活を送るようになった。この、貧富の差が後に二つの民族の対立の原因となる。つまり、この対立はもともと二つの民族が対立していたわけではなく、英国が原因で起きてしまった対立だということである。 | ||
+ | また、この対立では、対立が激化していくうちに、タミル人は子供を戦争に送りたくないという親達の意見を無視して、農村から未成年者を強制的に徴兵して、未成年の子供達を少年兵として利用してしまった。この、少年兵問題もこの対立の問題点である。 | ||
- | == 参考 == | ||
- | "タミル‐ぞく【タミル族】", デジタル大辞泉, JapanKnowledge, http://japanknowledge.com, (参照 2015-07-19) | ||
+ | == 参考 == | ||
http://www.y-history.net/appendix/wh0201-087_0.html#wh1703-094 | http://www.y-history.net/appendix/wh0201-087_0.html#wh1703-094 | ||
- | 2015-7-19 | + | |
+ | http://kwww3.koshigaya.bunkyo.ac.jp/wiki/index.php/%E3%82%BF%E3%83%9F%E3%83%AB%E4%BA%BA | ||
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+ | http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/wakaru/topics/vol40/ | ||
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+ | http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E3%82%BF%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%A0%E8%A7%A3%E6%94%BE%E3%81%AE%E3%83%88%E3%83%A9 |
2015年8月5日 (水) 11:25の版
目次 |
概要
インド南東部を中心にスリランカ北部などに居住し、ドラビダ語族に属するタミル語を用いる民族で、古くから海上交易を行い、王朝をたて独自のヒンズー文化を栄えさせた民族である。また東南アジアやアフリカなどへの移民が多い。
スリランカ内戦
スリランカでのアーリヤ系で仏教徒のシンハラ人(人口の7割)と、ドラヴィダ系でヒンドゥー教徒の少数民族のタミル人(人口の2割)との民族・宗教的な対立のことである。 1983年から、が分離独立を要求し、「タミル・イーラム解放の虎(LTTE)」がテロ活動を開始し、スリランカは内戦となり、1987年にインドのラジブ=ガンディー首相が内戦に介入してインド軍を出兵させ、タミル人の弾圧にあたった。しかし、1991年にはタミル人過激派によって暗殺された。その後も内戦は激化し、多くの死者がでたが、ようやく2002年に停戦に合意した。しかし、「タミル・イーラム解放の虎(LTTE)」はスリランカ北部に拠点を置き、全盛期には国土の3分の1を制圧した。しかし、2008年から政府軍の攻勢を受けて次々と拠点を失い、最後は北部の狭い地域に20万近い民間人を「人間の盾」にして立てこもる戦術をとった。それに対し、政府軍は攻勢を強め、2009年5月17日に民間人全員を解放し、18日にはタミル・イーラム解放の虎の議長を射殺して全土の解放を宣言し、内乱を一応終結させた。
問題点
そもそもなぜこの民族の対立が起こってしまったかというと、大航海時代にポルトガル、とオランダがシナモンを求めて来航し、二つの国が湾岸地域を植民地化し、1815年に島の全領土が英国の植民地となった。この時に、それまであった二つの民族の境界線は無視され、統一的に支配されるようになった。さらに英国は二つの民族を平等に扱わずタミル人を優遇した。その結果、シンハラ人は貧しくなり、タミル人のほうが良い生活を送るようになった。この、貧富の差が後に二つの民族の対立の原因となる。つまり、この対立はもともと二つの民族が対立していたわけではなく、英国が原因で起きてしまった対立だということである。 また、この対立では、対立が激化していくうちに、タミル人は子供を戦争に送りたくないという親達の意見を無視して、農村から未成年者を強制的に徴兵して、未成年の子供達を少年兵として利用してしまった。この、少年兵問題もこの対立の問題点である。
参考
http://www.y-history.net/appendix/wh0201-087_0.html#wh1703-094
http://kwww3.koshigaya.bunkyo.ac.jp/wiki/index.php/%E3%82%BF%E3%83%9F%E3%83%AB%E4%BA%BA