ユダヤ人3
出典: Jinkawiki
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*210頃 ミシュナーの編纂 | *210頃 ミシュナーの編纂 | ||
*313 コンスタンティヌス帝がキリスト教に改宗、ビザンチン帝国を建てる | *313 コンスタンティヌス帝がキリスト教に改宗、ビザンチン帝国を建てる |
2016年7月25日 (月) 21:57の版
ユダヤ人とは
ユダヤ人はヘブライ人とも呼ばれる。前2000年ごろからパレスチナ地方に定着し、ユダヤ教を発展させた民族であり、19世紀の近代国民国家の形成とともに、民族としての(ユダヤ人)認識が生まれた。 ユダヤ人は世界に離散したため、日常言語として、スファルディ系(スペインのユダヤ人)のラディノ語、アシュケナージ系(ドイツ、東欧のユダヤ人)のイーデッシュ語のほか、タット語(カスピ海沿岸)などを作った。居住地域の言語にヘブライ語などをまじえたもので、表記はヘブライ語またはローマ字を使う場合があった。また、近世、資本主義の勃興とともに実力を蓄え、学術・思想・音楽方面にも活躍する。===ユダヤ人の定義=== ユダヤ人には様々な定義が下されてきた。たとえば、タルムード(口承律法ミシュナーとその注解、討論たるゲマラ)には「偶像を否定するものはユダヤ人と呼ばれる」とある。サルトルは「他人によってユダヤ人と呼ばれる人」がユダヤ人と言った。 イスラエルの父と言われる初代首相のダビッド・ベングリオンは、「自分がユダヤ人たることを宣明し、ユダヤ的生活を送り、ユダヤ人の安寧を願うものはユダヤ人」と述べている。現在イスラエルでは「ユダヤ人を母とする者またはユダヤ教徒」としている。 ユダヤ人共同体はアム・イスラエルと呼ばれる。イスラエル共同体の意で、改宗によってその一員となった人も含まれるが、大半は古代イスラエルから先祖代々母方の血を伝って現代に至った人々である。
ユダヤ人の歴史
- 前1270頃 モーセによる出エジプト
- 前1100頃 ヨシュアによるカナン征服
- 前1020 サウル、へブル王国建設
- 前1004 ダビデ王即位(~前965)
- 前997 ダビデ、エルサレムを首都にする
- 前965 ソロモン王即位(~前930)、第一神殿建立
- 前928 北のイスラエル王国(首都サマリア)と南のユダ王国(首都エルサレム)に分裂、南北王国時代に(~前586)
- 前722 アッシリア・サルゴン二世によりイスラエル王国滅ぼされる
- 前586 バビロニア・ネブガドネザル二世によりユダヤ王国滅ぼされる
第一神殿の破壊とバビロン捕囚(~前538)
- 前538 ペルシア帝国の支配下に(~前333)。ユダヤ人の帰還が許される
- 前515 エルサレムに第二神殿建立
- 前333 プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリアの支配(~前142)
- 前167 セレウコス朝・アンティオコス四世がユダヤ教禁止令を発布
- 前166 マカベの反乱(~前160)
- 前142 ハスモン朝ユダヤが独立(~前63)
- 前63 ローマ帝国による支配(~後313)
- 前37 マタティアの反乱軍が敗北、へロデがユダヤ王に任命される
- 前4 へロデ死去。ベツレヘムにイエス誕生
- 6 ユダヤ、サマリヤ、イドマがローマ帝国の直轄領となる
- 30 イエスの処刑
- 66 ローマ帝国への第一反乱(~73)
- 70 ローマ帝国。ティトス将軍が第二神殿を破壊する(残った西壁が「嘆きの壁」)
ユダヤ人のディアスポラの始まり
- 132 ローマ帝国への第二次反乱(~135、バル・コフバの反乱)
- 135 地方名をペリシテ人に由来するフィリスチン(パレスチナ)に改称
海外居住のユダヤ人の帰国禁止
- 210頃 ミシュナーの編纂
- 313 コンスタンティヌス帝がキリスト教に改宗、ビザンチン帝国を建てる
- 321 ケルンにユダヤ居住区ができる
- 379 テオドシウス帝、ユダヤ教徒を公職から追放/このころ「パレスチナ・タルムード」成立
- 490頃 「バビロニア・タルムード」成立
- 553 コスティニアヌス帝、反ユダヤ法発令
- 613 西ゴート、改宗を拒否したユダヤ教徒を国外に追放する。
- 636 アラブ人とセルジュク・トルコの支配(~1099)
- 740頃 中央アジアのハザール王国でユダヤ教に大量改宗が起きる
- 1016 ハザール王国滅亡
- 1099 十字軍の侵攻と支配(ラテン王国、~1291)
- 1290 イングランドのエドワード一世がユダヤ人を国内から追放
- 1291 マムルク朝エジプトの支配(~1516)
- 1306 フランスのフィリップ四世がユダヤ人を国内から追放
- 1348 ペストをばらまく犯人とされ、ヨーロッパ各地でユダヤ人が殺戮される
- 1492 スペインでユダヤ教徒追放令が出され、大量の強制改宗が起こる
- 1516 オスマン・トルコ帝国の支配(~1917)
ヴェネツィアにはじめてゲットーができる
- 1544 宗教改革者マルティン・ルターがユダヤ人を攻撃
- 1569 ローマ教皇、教皇領からユダヤ教徒を追放
- 1590頃 マラーノ、オランダのアムステルダムに定住
- 1654 ユダヤ人がアメリカのニューアムステルダム(ニューヨーク)に移住
- 1656 イングランドのクロムウェルがユダヤ人の入国を許可
- 1712 はじめての公認シナゴークがベルリンにできる
- 1791 フランスの国民会議がすべてのユダヤ人に完全な市民権を与える
- 1847 イギリスがユダヤ人に公職を開放
- 1870 イタリアでローマのゲットーが廃止され、ユダヤ人差別が撤廃される
- 1871 ロシアのオデッサでポグロム
- 1881 南ロシア全域でポグロム(~1882)。リトアニア生まれのベン・イフダ、パレスチナに移住してヘブライ語復興運動を起こす
- 1894 フランスでドレフュス裁判(~1899、無罪判決)
- 1897 ヘルツル、スイスのバーゼルで第一回シオニスト会議を開催
- 1905 ロシア(ウクライナほか)でポグロム(~1906)
- 1911 最初のキブツがテガニアに建設される
- 1917 バルフォア宣言(イギリス外相の英国ロスチャイルド家への書簡)
アレンビー英将軍のエルサレム入城、オスマン・トルコの支配が終わる
- 1920 全ユダヤでヘブライ語が公用語となる
- 1935 ナチス、ニュルンベルク法公布(ユダヤ人の市民権剥奪)
- 1937 水晶の夜(ナチスのホロコーストの開始)
- 1939 パレスチナのユダヤ人は連合国側に立ってナチスと戦う(~1945)
- 1940 杉原千畝リトアニア領事代理、ユダヤ難民に通過ビザ発給
- 1942 ヴァンゼー会議(欧州ユダヤ人の抹殺を決定)
- 1947 国連がパレスチナ分割案を採択
- 1948 ベングリオンがイスラエル独立を宣言、第一次中東戦争
- 1956 シナイ半島で第二次中東戦争
- 1967 第三次中東戦争(六日戦争)
- 1968 スペインでユダヤ教徒追放令が解除。第四次中東戦争(~1970)
- 1972 PLOがミュンヘン・オリンピック村襲撃
- 1973 第五次中東戦争
- 1979 イスラエル・エジプト平和条約の調印
- 1981 サダト・エジプト大統領暗殺
- 1982 イスラエル、レバノンへ侵攻(ガリラヤ平和作戦)
- 1985 イスラエル、レバノンから撤退、安全保障地帯を南レバノンに設置
- 1987 ガザ西岸でインティファーダー発生。反イスラエル・テロ激化
- 1993 イスラエルとPLOがパレスチナ暫定自治協定に調印(オスロ合意)
- 1994 ガザとエリコにパレスチナ自治区
- 1995 パレスチナ自治拡大協定、西岸六都市でイスラエル軍撤退開始
ラビン・イスラエル首相暗殺
- 1997 イスラエル、ヘブロンから撤退を表明
ユダヤ人になるには
ユダヤ人になるには、改宗(多大な学習と厳格な手続きを要する)する必要があるが、これは容易ではなく、審議も厳しい。日常生活の中でも多くの戒律を守らなければならない。 そのため、ユダヤ人になるには、まず相談にのってくれるラビ(ユダヤ教の教師)を見つけることから始める。しかし、そのラビがどの派に属するのかで、アプローチが違い、他派から認められない可能性がある。そのラビの指導あるいは改宗者の教室で、旧約聖書、ユダヤ教の概念、戒律、礼拝法、祝祭日、ライフサイクル、ユダヤ史、ヘブライ語、イスラエル、ホロコーストなどについて学ぶ。改宗審査は、3人のラビで構成されるベトディン(ラビ法廷)において行われる。合格すると、カバラット・オル・ミツボット(戒律厳守の誓い)をなすのだが、ミクベという斎戒沐浴槽でテビラ(受洗)し、男性であればブリット・ミラ(割礼)を受け、コルバン(犠牲の捧げものをする儀式)を経る。しかし、改宗手続きの明確な説明はない。
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