ウェストファリア条約

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参考文献 参考文献
・長坂寿久著『オランダを知るための60章』(2007年)明石書店 ・長坂寿久著『オランダを知るための60章』(2007年)明石書店
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・「ウェストファリア条約 - 世界史の窓」-http://www.y-history.net/appendix/wh0904-097.html ・「ウェストファリア条約 - 世界史の窓」-http://www.y-history.net/appendix/wh0904-097.html

2016年8月1日 (月) 18:38の版

 1648年にウェストファリア会議で成立した三十年戦争の講和条約。神聖ローマ皇帝、ドイツの66の諸侯、フランス、スウェーデン、スペイン、オランダなどの代表が参加した、世界で最初の大規模な国際会議であったとされている。 世界最初の近代的な国際条約とされる。ウェストファリアは、ネーデルラントに接したドイツ西部の地方で、その中心の二つの都市、ミュンスター市とオスナブリュック市で講和会議が開かれた。会議は1642年に開催されるとされたが、 皇帝とカトリック諸侯の内輪もめや、フランスの参加が遅れたことなどによって、1644年にようやく始まることとなった。会議の場所がミュンスター市とオスナブリュック市の2か所になったのは、フランス(ミュンスター市)とスウェーデン(オスナブリュック市) という戦勝国を分離させ、それと個別に交渉して有利に講和しようと言うドイツ諸侯の策謀があったからだとされている。 会議は1645年から実質的な討議に入り、3年を要して、1648年にウェストファリア条約が締結されたことで、三十年戦争の終結となった。これにより、オランダの独立は正式に証明されたこととなる。


 軍事小国でもあるオランダが世界最大の覇権国として繁栄し得たことは驚くべきことであり、この時代のオランダの発展は、オランダを取り巻く社会情勢の幸運にもあるといわれている。


条約の内容

①アウクスブルクの和議が再確認され、新教徒の信仰認められる。  またカルヴァン派の信仰も認められた。(=宗教戦争の終結)

②ドイツの約300の諸侯が独立した領邦となる。それぞれが立法権、課税権、外交権を持つ主権国家であると認められ、神聖ローマ帝国は実質的解体に。

③フランスは、ドイツからアルザス地方の大部分とその他の領土を獲得。

④スウェーデンは北ドイツのポンメルンその他の領土を獲得。

⑤オランダの独立の承認(オランダ独立戦争の終結)と、スイスの独立の承認。

(※フランスとスペイン間の戦争は継続され、両国の講和は遅れて1659年のピレネー条約で成立した。またこの時イギリスは清教徒革命の最中であったため、この条約には関わっていない。)


条約の意義

 条約の意義は大きく分けて三つあると考えられる。

  一つ目は、宗教改革以来の新・旧派の対立を終わらせ、ヨーロッパ中央部を人口及び資源の面でカトリック圏とプロテスタント圏に均等な勢力圏を構成させ、勢力的均衡を図ったことである。  

 二つ目は、この条約によって、神聖ローマ帝国は実質的にドイツ全土を支配する権力としての地位を失い、ハプスブルク家はオーストリアとその西方を領有することになったことである。 そのため、ウェストファリア条約は「神聖ローマ帝国の死亡証明書」とも言われている。

  三つ目としては、神聖ローマ帝国の実質的解体に伴って、ドイツの領邦はそれぞれ独立した領邦国家として認められたことである。これによって中世封建国家に代わって主権国家がヨーロッパの国家形態として確立したとされている。



参考文献 ・長坂寿久著『オランダを知るための60章』(2007年)明石書店

・「ウェストファリア条約 - 世界史の窓」-http://www.y-history.net/appendix/wh0904-097.html


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